病気について
以下の文章は、本当に健康を取り戻したい。
どうして、病気になったのか知りたい
というかたに、読むことをお勧めします。
ニール・ドナルド・ウォルシュ著 「神との対話1」13章 から一部引用
あなたが病気について考えると(あるいは怒りや憎悪、否定を続けていると)、あなたの身体はその思考を物理的なかたちに変える。ひとはこの否定的な病んだかたちを見て、「どうしたのか(What's the matter?)」と聞く?
その問いが、どれほど的確かは知らないだろうが。
いまぶつかっている健康上の問題はどうすれば解決できますか?三回生きても足りないほど、さまざまな慢性的な症状に苦しめられているんです。どうしてこの生涯で何もかもいっぺんに背負い込んでしまったんでしょう?
まず、ひとつはっきりさせておこう。あなたは病気を愛している。とにかく、その大半を愛している。自分を憐れんだり、自分に注意を向けるために、病気を利用してきたのだ。珍しく病気を愛していないことがあれば、それは病気が進みすぎたからである。病気を創り出したとき予想した以上に、ひどくなってしまったからだ。
たぶん、もうわかっているだろうが、ひとつはっきりさせておこう。すべて、病気は自分で創り出している。いまでは、頭のかたい医師たちにさえ、人が自分で自分を病気にしていることがわかってきた。
ほとんどのひとは、まったく無意識に病気を創り出している(自分が何をしているかさえ、気づいていない。)だから病気になったとき、何にやられたのかわからない。自分でしたのではなく、よそから何かが降ってきたように感じる。
そんなことになるのも、ほとんどのひとが 健康上の問題だけでなく 人生を無意識に生きているからだ。
ひとはタバコを吸っていながら、どうしてガンになったのかといぶかる。
ひとは動物性食品や脂肪をとっておきながら、どうして動脈硬化になったのかといぶかる。
ひとは一生怒りつづけながら、どうして心筋梗塞になったのかといぶかる。
ひとは 信じられないほどのストレスに耐えて、過酷な 競争をしながら、どうして発作が起こったのかといぶかる。
それほどはっきりしていないが、心配のあまり死ぬひとも多い。
心配というのは、最悪の精神活動のひとつだ。非常に自己破壊的な憎悪のつぎに悪い。心配はなんの役にもたたない。精神的エネルギーの浪費だ。それどころか、身体を傷つける生物的化学反応のもとで、消化不良から冠動脈血栓にいたるまで、さまざまな障害を引き起こす。
心配するのをやめれば、すぐにも健康状態は良くなる。
心配するのは、「わたし」とのつながりを理解していないからだ。
憎悪はいちばん破壊的な精神状態である。憎悪は身体を毒する。そうなると、元に戻すことはできない。
不安は、あなたのあらゆるものと対立する。あなたの精神的、肉体的健康に悪影響を及ぼす。不安は増幅された心配である。
心配、憎悪、不安は さらに、これから生まれる気がかり、苦々しさ、短気、貪欲、不親切、批判、非難なども
すべて、細胞レベルで身体を攻撃する。そうなったら健康を保つことは不可能だ。
同じく 程度の差はあるが うぬぼれ、わがまま、欲張りも肉体的な病気につながる。あるいは快適さを損なう。
病気はすべて、まず精神のなかで創られる。
でも、どうしてそんなことがあるでしょうか? 人から感染する病気はどうなんですか? 風邪とか、それにエイズも?
あなたの人生では、何もかもまず思考から生まれる。そうでないものは何もない、と言ったはずだ。
考えは磁石のようなもので、結果を引き寄せる。考えはいつもはっきりしているとは限らないから、
たとえば、「わたしはひどい病気にかかる」と考えて病気になるというほど、因果関係ははっきりしていない。それよりも(ふつうは)もっと微妙だ(「わたしなんか生きている資格はないんだ」)「わたしの人生はいつもめちゃくちゃだ」「わたしは敗北者だ」「神様の罰があたりそうだ」「わたしは具合が悪い」「人生にうんざりしている!」)
思考は微妙なものだが、エネルギーのかたちとしては強力だ。言葉はそれほど微妙ではなく、もっと密度が高い。いちばん密度が高いのは行動だ。行動は物理的な重いかたちで重い動きをしているエネルギーである。あなたがたとえば「わたしは敗北者だ」と否定的なことを考え、言葉にし、行動しているとき、すさまじい創造のエネルギーが動いている。風邪で倒れるのも不思議ではない。それくらいはましなほうだろう。
否定的な思考の効果がいったん物理的なかたちをとってしまうと、逆転させることはむずかしい。不可能ではないが、きわめて困難である。そのためにはとても強い信念にもとづく行動が必要だ。宇宙の前向きの力に対するとほうもない信念がいる。その力を神と呼んでもいいし、女神、ゆるぎない動かし手、至高の力、最初の原因と呼んでもかまわないが。
病を癒す癒し手は、そんな信念をもっている。神の世界への知への境界を越えるのはその信念だ。癒し手は、たったいまのあなたが、欠陥のない完璧な存在であるべきことを知っている。その知はまた思考でもある。非常に強力な思考だ。山をも動かす力がある。ましてや、あなたの身体の分子などは簡単に動かす。だから癒し手は、ときには遠くからでも癒すことができる。
思考に距離はない。思考は、言葉が口に出るより早く世界をまわり、宇宙を旅する。
「ただ、お言葉をいただかせてください。そうすれば、わたしのしもべは癒されますから」と聖書にある。
そのとおり、その瞬間、最後の言葉が終わる前に病人は癒やされている。こう語った聖書の百人隊長はそれだけの信念をもっていた。
だが、あなたがたはみな精神的ハンセン病患者だ。精神が否定的な考えにむしばまれている。否定的な考えの一部はあなたに突き刺さる。あなたがたは多くの否定的な考えをいだき 呼び寄せ
・・・・そうしておいて、なぜ病むのかといぶかる。
「健康上の問題を解決」するには、考え方の問題を解決すればいい。すでにかかった(招いた)ものでも、癒すことができるし、新しい大きな問題が生じるのを予防することができる。要は考え方を変えればいいのだ。
それに 神である「わたし」がいうのも変なのだが 神かけてたのむから、もっと自分を大切にしなさい。
あなたは、具合が悪くなるまでは、自分の身体をないがしろにしている。何も予防をしない。身体よりも自家用車のほうを大事にしているくらいだ。もっとひどいかもしれないな。
年に一度、定期検診を受ければ病気で倒れるのを予防できるのにそれもせず、教えられた療養法をまもらず、薬を服用せず(どうして医師のもとへ行って助けてもらいながら、医師の言うことを聞かないのか?それだけでも返事ができるかな?)医者にかかっていないときには身体を虐待する。運動をせず、さらに身体を弱くする。
有害物や毒物、あるいは食物と称されているとんでもない物質で身体をいっぱいにする。それでも、身体というエンジンは動きつづける。そんなひどい目にあいながら、がんばってなんとか動きつづけている。
ひどいものだ。あなたが身体を酷使しているさまはほんとうにひどい。しかも、身体のためになることはほとんどしない。これを読んで、あなたはそのとおりと後悔してうなずくだろうが、またすぐに元に戻ってしまう。その理由がわかるだろうか?
たずねるのが怖いですね?
なぜなら、あなたには生きようという意思がないからだ。
それはまた、厳しい告発だな。
厳しくもないし、告発でもない。「厳しい」というのは相対的な言葉で、あなたがそう判断しているだけだ。「告発」というのは罪を、「罪」は悪事を意味する。だが、この問題は悪事とは関係ないから、罪とも告発とも関係ない。
わたしはただ、真実を言っただけだ。真実をついた言葉は、ひとを目覚めさせる。けれど、目覚めさせられるのがいやなひともいる。ほとんどのひとがそうだ。眠っているほうがいいのだ。
世界がいまのようになったのは、夢遊病者だらけだからだ。
わたしの言葉のどこが真実でないというのか? あなたには生きようという意思がない。少なくとも、いままではなかった。
あなたが「一瞬のうちに回心した」と言うなら、あなたがまた身体を虐待すると言うのはよそう。さっきああ言ったのは、いままでがそうだったからだ。
・・・それに、あなたの目を覚まさせるためでもある。眠りが深いと、揺さぶってやらなければ起きないことがあるから。
これまで、あなたはほとんど生きる意志をもっていなかった。そんなことはないと言うかもしれないが、行動を見ればはっきりわかる。
タバコに火をつけたことがあるなら。まして、あなたのように20年もの間、毎日一箱吸いつづけている者は 生きる意志などほとんどない。自分の身体を少しもいたわっていない。
でも、10年前に禁煙しましたよ!
20年も身体を痛めつけたあとで、だろう。
それに、酒を飲んだことがあれば、やはり生きる意志などほとんどないのだ。
でも酒はほどほどにしか飲んでません。
身体はアルコールを摂取するようにできていない。アルコールは精神を損なう。
でも、イエスもアルコールを口にしたではありませんか? 結婚式に出かけて、水をワインに変えましたよ!
イエスが完全であると誰が言ったのかね?
神さま、そんな。
おやおや、わたしがいやになったかな?
神様がいやになるなんて、とんでもありません。それは無礼だ、そうではありませんか? でも、おっしゃることはちょっと極端じゃないでしょうか?父はよく「すべてはほどほどがいい」と言っていました。アルコールについては、父の言うとおりだと思っていましたよ。
ほどほどの虐待なら、身体はたやすく立ち直れる。だから、お父さんの言葉はあたっている。だが、さっきの言葉は撤回しないよ。身体はアルコールを摂取するようにはできていないのだ。
でも、薬のなかにもアルコールが入っているのがありますよ!
あなたが何を薬と呼ぼうと、わたしにはどうすることもできない。ただ言うべきことを言うだけだ。
あなたはほんとうに頑固ですね。そうじゃありませんか?
よいか、真実は真実だ。誰かが「多少のアルコールは害にならない」と言ったとして、あなたの今の生活にあてはめれば、そのとおりだろう。だからといって、わたしの言葉が真実であることに変わりはない。あなたがわたしの言葉を無視してもいいと思うだけだ。
だが、こう考えてごらん。あなたがた人間はいま、だいたい50年か80年で身体を使い果たしてしまう。
それよりも長もちするひともいるが、多くはない。もっと早くだめになるひともいるが、そう多くはない。そうではないか?
ええ、そのとおりです。
よろしい。議論の出発点としては、たいへん、けっこう。さて、わたしが「多少のアルコールは害にならない」という言葉に同意すると言ったのには、「あなたのいまの生活にあてはめれば」という条件がついていた。あなたがたは、いまのような生活に満足している。だが、驚くかもしれないが、人生は本来、まったく違ったもののはずだった。あなたがたの身体はもっと長くもつはずだった。
そうなんですか。
そう。
長くって、どれくらいですか?
はてしなく続く。
それは、どういう意味ですか
息子よ、あなたがたの身体は永遠にもつように創られたという意味だよ。
永遠に?
そう。「いつまでも」ということだ。
それじゃ、わたしたちはいつまでも死なないはずだとおっしゃるんですか?
あなたがたは決して死なない。生命は永遠だ。あなたがたは不死だ。決して死なない。ただ、かたちを変えるだけだ。本来は、それさえも必要はなかった。かたちを変えると決めたのはあなたがたで、わたしではない。わたしはあなたがたの身体をいつまでももつように創った。あなたはほんとうに、神が最善をつくしても60年か7、80年で壊れるような身体しか創れないと考えるのか? その程度が、わたしの能力の限界だと思っているのか?
そんなふうには考えたことがありませんでした、だけど・・・・・。
わたしはあなたがたのすばらしい身体が永遠にもつように創った! そして、最初の人間たちは文字どおりの苦痛のない身体のなかで、いま死と呼ばれているものへの不安もなしに、生きていた。