絶望に際して
絶望するあなたに神はなんと語りかけるのか?を知りたい。
というかたに、読むことをお勧めします。
ニール・ドナルド・ウォルシュ著 「神との対話」から一部引用
「神との対話1 7章」から一部抜粋
でも、失業して、家賃を払わなければならず、子供は歯医者にかからなければならないとき、どうすれば神の場に着けるのですか。高貴で哲学的な場が、こうした問題を解決してくれるとはとても思えないんですが?
わたしを最も必要としているときに、わたしを捨ててはいけない。いまこそ、試練のときだ。いまこそ、チャンスだ。ここに書かれたすべてを証明するチャンスだ。
「わたしを捨ててはいけない」と言うと、まるでさっき話に出た、要求がましい神経症の人たちが考える神のように聞こえる。しかし、そうではない。あなたは好きなだけいくらでも、「わたしを捨て」ればいい。わたしはかまわないし、それでわたしたちの間柄が変化することもない。わたしは、あなたの質問に答えているだけだ。つらいときには、真の自分を忘れがちになり、自分が選んだ人生を創造するために与えられた道具を忘れがちになる。
いまこそ神の場に行くときだ。そこでまず大きな精神の平和が得られる。平和な精神からは良いアイデアがあふれ出す。そのアイデアで、あなたが抱えていると思っている問題が解決するかもしれない。
第二に、神の場でこそ、あなた自身の自己が実現する。それがあなたの魂の目的、唯一の目的だ。
神の場にいれば、いま経験していることはすべて、かりそめにすぎないとわかるだろう。言っておくが、天国も地上も過ぎ去るが、あなたは過ぎ去らない。この永遠という視点から見れば、ものがよく見えてくる。
現在の状況や環境は、一時的なかりそめのものだと、正しく考えられるようになる。そして、それを道具として使えるようになる。状況や環境は、現在の経験を創造していく上での、一時的なかりそめの道具にすぎないからである。
あなたは自分を何者だと考えているのか? 失業と呼ぶ経験との関連で、自分を何者だと考えているのか? そして、もっと肝心なことだが、わたしを何者だと考えているのか? 問題が大きすぎて、わたしには解決できないと思うのか? いまの苦境からの脱出という大きな奇跡は、わたしの手には負えないと思っているのか? たとえ、わたしに与えられた道具があっても、あなたがとりくむには問題が大きすぎるというなら理解できるが、わたしの手にも負えないとほんとうに思っているのか?
頭では神にとって問題が大きすぎはしないと考えています。だが、気持ちの上では確信がもてません。手に負えないかどうかではなく、あなたが手を出してくださるかどうか確信がもてないんです。
わかった。それでは信頼の問題だ。
そうです。
あなたはわたしの能力を疑っているのではなく、わたしの意図を疑っているということなのだね?
つまり、こういう経験はわたしに教訓を与えるためかもしれない、ついそう考えるような教えが身についているんです。解決策があるのかどうか、確信がもてないんですよ。もしかしたら、問題を抱えていろということかもしれない。いままでの教えをもとに考えると、これは与えられた「試練」のひとつかもしれないと感じてしまうんです。だから、問題は解決しないのかもしれない。あなたが、この試練に耐えろと言われているのかもしれない、と・・・・・。
ここでもう一度、わたしとあなたがたとの関係をおさらいしておいたほうがよさそうだ。あなたは、わたしの意図の問題だと考えており、わたしは、あなたの意図の問題だと言っているのだから。
わたしがあなたに望むのは、あなた自身があなたに望むことだ。それ以上でもなく、それ以下でもない。わたしはあなたが何かを求めるたびにそれをかなえるかどうか、ひとつずつ判断したりはしない。
わたしの法則によれば、ある原因があれば必ず結果が生じる。ふたを開けてみなければ結果がわからないなんてことはない。あなたの選択しだいで、実現できないことはない。それどころか、あなたが求める前から、わたしは与えようとしている。それを信じることができるかな?
いいえ、申しわけありませんが、祈っても応えてもらえない経験をさんざんしてきましたから。
あやまることはない。経験から生まれた正直な思いを大切にしなさい。わたしにはわかるし、尊重もする。わたしに向かいあうときは、それでいいのだ。
よかった。だって、わたしは求めるものをすべて得られるとは信じられないのです。わたしの人生が証拠です。それどころか、願いなどめったにかなうものじゃない。もし、願いがかなえば、ちくしょう、今回は幸運じゃないかと思いますよ。
おもしろい言葉を使うね。あなたはそちらを選択するわけだ。人生には、ちくしょうつきの幸運と、うれしい、やったぞという幸運と、両方ある。どちらかというと、うれしい、やったぞという幸運のほうがいいと思うが、 もちろん、あなたが決めたことに指図はしないけれど。
いいかな、あなたはつねに、自分が創造したものを得るのだし、つねに創造しつづけているのだ。
わたしは、あなたがたが創造したものを批判せず、ただ、もっと創造できるように、もっともっと多くを創造できるようにと、力を与えるだけだ。もし、創造したものが気に入らなければ、選びなおしなさい。神としてのわたしの仕事は、つねに再選択の機会を与えることだ。
さて、あなたは求めるものをすべて得られはしなかったと言う。だが、わたしは、あなたがつねに求めるものを得てきたと言う。
自分は選んだものをめったに得られないと言う考え、それも創造につながる思考だし、それを含めて、人生はつねにあなたの思考の結果だ。
あなたは現在、失業している。自分は失業という状況の犠牲者だと考えている。だが、ほんとうは、もうあなたはその仕事を選択していないのだ。あなたは朝、期待に満ちて目を覚ますのではなく、いやいやながら起きるようになった。仕事が楽しくなくなり、ぐちっぽい気分になりはじめていた。それどころか、何かほかにしたいと夢を見はじめていた。そうしたことが、何の意味ももたないと思うのか? あなたは自分の力を誤解している。忘れないように、あなたの人生はあなたの意図するとおりに進んでいくのだよ。
それでは、あなたはいま、何をしたいのか? 人生では、選んだものもめったに手に入らないという理論を実証したいのか? それとも、自分がほんとうは何者であり、わたしが何者であるかを明らかにしたいのか?
そう言われると恥じ入ります。すみません、悲しいです。
そう思うと何かの役に立つかな? 真実を聞かされたらなぜすなおに認め、そちらに向かって踏み出さないのか? 自分を責める必要はどこにもない。ただ、自分の選択を認めて、選びなおしなさい。
それでも、どうしてわたしは暗い考えばかり選ぶんでしようか? 暗いほうを選んでは、自分を責めるんでしようか?
無理もないとは思わないか?あなたがたは小さいころから、「悪い」と言われつづけてきた。自分が「罪」を背負って生まれたのだと思いこまされてきた。罪悪感は、そういう学習の結果だ。あなたがたは、何もできないほど幼いころから、自分のしたことに罪悪感を感じるようにしつけられてきた。完璧な者として生まれなかったことを恥じるように、教えられてきたのだ。
あなたがたは不完全な者としてこの世に生まれ出たと教えられている。あなたがたの宗教で言う原罪だ。たしかにそれは最初の罪だが、あなたがたの罪ではない。神が不完全なものを創造した、創造できたと考えているとすれば、それは神の何たるかを知らない世界があなたに対して犯した最初の罪だ。その誤解を中心にすべての教義ができあがっている宗教がある。まさに「誤解」だ。わたしが生み出したもの、生命を与えたものはすべて完璧だからである。生きとし生けるものはすべて、完璧さの完璧な反映であり、わたしの姿をかたどって、わたしに似せてつくられている。
だがあなたがたの宗教は、神は罰するという考えを正当化するために、怒りの対象をつくりあげた。そのせいで、模範的な人生を送っている者まで、救われなければならないことになった。救われなければならないような悪いことはしていなくても、もって生まれた不完全さから救われなければならないというわけだ。こうして(その宗教は)、あなたがた全員に、急いで何とかせよ、そうしないと地獄へ落ちるぞとおどす。
要するに、何をしても復讐心と怒りの神の気持ちをやわらげることはできない。復讐心と怒りの宗教に生命を与えるだけだ。おかげで宗教はいつまでも栄える。権力は多数の者が分かち合うのではなく、少数の者に集中しつづける。
もちろん、あなたがたは劣った考え、劣った思いを選び、自分を力のないちっぽけな存在だと思いつづける。そう、教えられてきたのだから。
やれやれ(My God)。どうすれば、そんな教えから逃れることができるのですか?
いい質問だ。そして、まさに適切な相手への質問だな!
この本を何度も読み返せば、そんな教えから逃れられる。何度も、くり返して読みなさい。すべての文章が理解できるまで。すべての言葉を覚えるまで。誰かに本のなかの文章を聞かせられるようになるまで。暗く落ちこんだ時にこの本のなかの文章が心に浮かんでくるようになるまで。そうすれば、「そんな教えから逃れる」ことができるだろう。
「神との対話2」11章から一部抜粋
でも、飢えているときに、どうして内心の平和を見いだせますか?渇いているときに、平穏な心でいられますか?屋根もなくぬれそぼってふるえているとき、おだやかな気持ちでいられますか?愛する者が理由もなく死にかけているとき、怒りを感じないでいられますか?
あなたのお話はとても詩的ですが、詩は現実的ですか?ひと切れのパンがないためにやせおとろえて死んでいく子供を抱いたエチオピアの母親に、何か言ってやれますか?中米で、軍隊が村を略奪するのを阻止しようとしたために、銃弾を浴びた男には?それに、ブルックリンでギャングに八回もレイプされた女性に、あなたの詩は何と言ってやるんですか?日曜日の朝、テロリストが教会に仕掛けた爆弾で吹き飛ばされたアイルランドの家族六人には?
そう聞くのはつらいが、すべては完璧なのだ。完璧さを見ぬく努力をしなさい。それがわたしが言っている意識の変化だ。何も必要としないこと。
すべてを望むこと。現れたものを選択すること。
気持ちをかみしめなさい。泣きたいだけ泣きなさい。笑いたいだけ笑いなさい。自分の真実を誇りにしなさい。
だが、すべてを感じつくしたときは、おだやかに、わたしが神であることを知りなさい。
言い換えれば、最も大きな悲劇のさなかに、プロセスの栄光を見なさい。
胸を撃ちぬかれて死ぬときですら、またギャングにレイプされているときですら。
そんなことは不可能だと思うかもしれない。
だが、神の意識のなかに入れば、それができる。
もちろん、そうしなければならないというのではない。それは、あなたがその時をどう体験したいかによる。大きな悲劇にあったときの課題は、どうやって心をしずめ、魂の奥深くへ入っていくかだ。
もうコントロールできない、というとき、あなたがたは自動的にそうなる。
車が橋から墜落する事故にあったひとの話を聞いたことはないか?あるいは、銃をつきつけられたひとの話は?溺れかけたひとの話は?
時の歩みが遅くなり、不思議な静けさに包まれて、恐怖をまったく感じなかった、というひとが多いはずだ。
「恐れるな、わたしがあなたとともにある」というのが、悲劇に直面したひとに詩が語らねばならない言葉だ。最も暗いときに、わたしはあなたの光となるだろう。闇のなかで、わたしはあなたの慰めとなるだろう。最も困難な試練のとき、わたしはあなたの力となるだろう。
だから、信じなさい!わたしはあなたの羊飼いだから、あなたは乏しいことはない。わたしはあなたを緑の牧場にくつろがせ、憩いの水ぎわに導くだろう。
わたしはあなたの魂を生き返らせ、わが名のために、正しい道に導く。
たとえ、死の影の谷を歩くときも、わざわいを恐れるな。わたしが、あなたとともにあるからだ。
わたしの鞭と杖があなたを慰めるだろう。
わたしはあなたの敵の前で、宴の卓を用意する。わたしはあなたの頭に油を注ぐ。あなたの杯をあふれさせる。
真実に、あなたが生きているかぎりは、恵みと慈しみがともなうだろう。
そして、あなたはわたしの家に──そしてわたしの心に──永遠に住まうだろう。
「神との対話1」14章から一部抜粋
見捨てられたと思わないように。わたしはつねにあなたとともにいる。質問があったら 毎日の暮らしの中で質問があったら いまでさえ、あなたはほかに質問したいことがあり、これからもずっとそうにちがいないから 答えてくれと、わたしを呼べばいい。この本のような形式は必要ない。
わたしは、この本だけを通して語っているのではない。あなたの魂の真実の中に、わたしの声を聴きなさい。正直な気持ちの中に、わたしの声を聴きなさい。精神の静けさのなかに、わたしの声を聴きなさい。
どこででも、わたしの声を聴きなさい。質問があるときはいつでも、わたしがすでに答えているのだと思いなさい。そして、あなたの世界に目を開きなさい。わたしの答えはすでに発表されている記事のなかにあるかもしれない。昨日、作曲されたばかりの歌のなかにあるかもしれない。愛するひとの口からでかかっている言葉のなかにあるかもしれない。知り合おうとしている新しい友人の心のなかにあるかもしれない。
わたしの真実は風のささやき、小川のせせらぎ、稲光、雨音だ。
土の感触、百合の香り、太陽の暖かさ。月の満ち欠けだ。
わたしの真実 そしてあなたが困ったときの頼りになる支え は、夜空のように荘厳で、赤ちゃんのおしゃべりのように単純であどけない。
心臓の鼓動のようにささやき わたしと一体になった息づかいのように静かだ。
わたしはあなたから離れない。離れることはできない。あなたはわたしの創造物、作品、娘であり息子、わたしの目的であり、そして、わたしの・・・・、
自己だから。
だから、いつでもどこでも、神の平安から切り放されたら、わたしを呼びなさい。
わたしはそこにいるだろう。
真実と
光と
愛とをたずさえて。