未来の教育 子供たちへの贈り物

ニール・ドナルド・ウォルシュ著 「神との対話」から一部引用

「神との対話2 9章から一部抜粋」

わかりました。先へ進みましょう。大きな観点から地球上の生活について話してくださるというお約束でした。アメリカが話題になったので、そのことについて、もう少しうかがいたいのですが。

いいとも。今回の対話では、地球という星が直面している大きな問題についてとりあげよう。そして、子供たちの教育ほど大きな問題はないね。

そうなんです。あまりうまくいっていないんですね……。お話の仕方でわかりますよ。

そうだな、もちろん、すべての問題は相対的だ。あなたがたが「こうしたい」と言っている言葉にてらして言えば、うまくいっていないね。
ここでわたしが言うこと、これまで言ってきたこと、この本に書かれることはすべて、文脈を考えて理解してもらわなければならない。わたしは、「正邪」「善悪」の判断をしているのではない。単に、あなたがたがこうしたいと言っていることがうまくできているかどうか、観察しているだけだよ。

わかります。

いまはそう言うが、いずれ──この対話が終わらないうちに──あなたは、わたしが判断している、批判的だと非難するだろうね。

非難したりはしません。それほど、愚かではありませんよ。

「それほど愚かではない」と言いながら、人間たちは、わたしを審判する神だと呼んできたのだよ。

でも、わたしはしません。

いずれ、わかるだろう。

教育について話してくださるということでしたね。

そのとおり。あなたがたの大半は、教育の意味も目的も機能も誤解している。最善の教育プロセスにいたっては、問題外だね。

それはまた、大胆なご意見ですね。もっとわかるように説明してくださいませんか。

人類のほとんどは、教育の意味、目的、機能を、知識を伝えることだと考えてきた。誰かを教育するには知識を与えなければならないと思っている。ある家族、部族、民族、社会、国、世界が蓄積してきた一般的な知識を与えなければ、とね。
だが、教育は知識とはほとんど関係ないのだよ。

そうなんですか?冗談じゃないですよね。

もちろんだ。

それじゃ、教育は何と関係するんですか?

智恵だよ。

智恵ですか?

そう。

いいですよ、降参します。知識と智恵はどうちがうのですか?

智恵とは、応用された知識だよ。

それじゃ、子供には知識を与えようとせずに、智恵を授けようとすべきなんだ!

第一に、何かを「しようと」するのはやめなさい。さっさとすればいい。第二に、智恵が大事だからといって、知識を無視してはいけない。それは致命的な間違いになるだろう。いっぽう、知識を大事にして、智恵をおろそかにしてもいけない。それもまた、致命的な間違いになるだろう。教育がだいなしになる。地球では、教育が破壊されるよ。

わたしたちは、知識を大事にして、智恵を無視しているんですか?

たいていはね。

どんなふうに?

子供たちに、どう考えるかではなく、何を考えるかを教えている。

お願いします。説明してください。

よろしい。子供たちに知識を与えるとは、何を考えるかを指示することだ。つまり、子供たちが何を知るべきかを指図し、あなたが理解させたがっていることが真実だと教えることだ。
いっぽう、子供たちに智恵を与える場合は、何を知るべきかも、何が真実かも指示せず、子供たちが自分の真実を見つけるにはどうすればいいかを教える。

でも、知識なしでは、智恵もないでしょう。

そのとおりだ。智恵を大事にして、知識を無視してはいけないと言っただろう。一定量の知識は、世代から世代へ伝えていかなければならない。当然だ。だが、少なければ少ないほどいい。子供たちに、自分で発見させなさい。いいかね。知識は失われる。智恵は決して忘れない。

それでは、学校で教えることはできるだけ少なくすべきなんですか?

学校ではいままでとは逆のことを重視すべきだ。いまは知識偏重で、智恵には重きがおかれていない。批判的な考え方、問題解決、論理といったクラスを、多くの親は脅威だと感じ、カリキュラムから追放したがる。まあ、親たちが自分の暮らし方を守りたければ、そうするしかないだろうね。批判的な考え方を身につけた子供たちは、親のモラルや基準、暮らし方を捨てる可能性が大きいから。
自分の暮らし方を守るために、あなたがたは子供の能力ではなく、記憶の開発という教育システムを組み立てた。子供たちは自分で真実を発見し、創造する能力を得るのではなく、事実やフィクションを──社会が積みあげてきたフィクションを──記憶させられる。記憶ではなく子供たちの能力と技術を開発するプログラムは、子供に何を学ばせるべきか承知しているつもりのひとたちに、ばかにされている。だが、いまの教育は、世界を無知から遠ざけるのではなく、無知へと追いたてている。

学校ではフィクションを教えたりはしません、事実を教えるんですよ。

ほら、子供に噓をつくように、自分にも噓をついている。

子供に噓をついているんですか?

もちろん、噓をついているよ。歴史の本を見てごらん。あなたがたの歴史と称するものは、子供たちに特定の世界観を植えつけたがるひとによって書かれたものだ。世界観をひろげよう、もっと大きな観点から事実を見ようとする試みは、「修正主義者」だと軽蔑される。あなたがたは過去についての真実を子供たちに語ろうとはしないし、まして、子供たちにほんとうの自分を見せようとはしない。歴史のほとんどは、いわゆる白人、アングロサクソン、プロテスタント、つまりWASPの視点から書かれている。女性や黒人、その他の少数派が「ちょっと待ってくれないか。そうじゃなかったよ。大事な部分がぬけ落ちている」と声をあげると、あなたがたはぎょっとし、あわてて「修正主義者」が教科書を変えようとしている、やめろ、と叫ぶ。子供たちに、ほんとうは何が起こっていたのか知らせたくないのだ。あなたがたの視点で事実をどう正当化するかを教えたがる。例をあげようか?

お願いします。

 アメリカでは、日本の二つの都市に原爆を落とし、おびただしい人間を殺傷する結果となった決断について、子供たちにすべてを教えてはいない。あなたがたから見た事実、あなたがたが見たがっている事実を教えている。ものごとを別の観点から見て──この場合は日本人の側から見て──バランスをとろうという動きが起こると、あなたがたは怒り狂い、地団駄踏んでわめきたてる。学校がこの重大な歴史的事実について、データを提示しようと考えることさえ、けしからんと言う。
歴史は正確に、もれなく、実際に起こったことを語るべきもののはずだ。ところが、政治は実際に起こったこととまったく関係がない。つねに、起こったことについての誰かの視点だ。
歴史は明らかにし、政治は正当化する。歴史はあばき、すべてを語る。政治は隠し、一方の側の見方だけを語る。政治家は真実が書かれた歴史を嫌う。そこでは、政治家は良くは書かれない。
ところが、あなたがたは結局、「裸の王さま」で、子供たちはいつかは真実の姿を見ぬく。歴史を批判的に見ることを教えられた子供たちは、「親や年長者たちは、自分自身をごまかしていたんだ」と言う。あなたがたはそれが耐えられない。だから子供たちの頭から批判的な考え方をとり除く。子供たちに基本的な事実を知らせたがらない。あなたがたの見方を教えこみたがる。

それは、ちょっと大げさだと思います。そこまで言うのは、行きすぎじゃないかなあ。

そうかな?あなたがたの社会では、子供に生命の基本的な事実さえ教えたがらないではないか。学校で人間の身体の機能を教えようとしただけで、大騒ぎをする。HIVがどんなふうに感染するのか、どうすれば感染を防げるのかさえ、子供たちに教えようとしない。もちろん、ある観点からのエイズ予防については教えているよ。それもいい。だが、まず事実を教えて、あとは子供たち自身に決めさせたらどうなのか?そんなことは決してしないね。

子供たちにはまだ、自分で決めるなんて無理です。適切な指導をしなければ。

最近、世の中をよく見たことがあるかね?

とおっしゃいますと?

あなたがたのやり方の結果が、いまの世界だよ。

いや、それは指導が間違っていたからです。いまの世の中が腐っているとしたら──たしかにそうとしか言えない面も多いのですが──それは、子供たちに古い価値観を教えようとしたからではなく、やたらに「新規な」ことを考えさせたからですよ!

ほんとうに、そう思うのかな?

もちろん、思っていますとも!「批判的な考え方」なんか教えないで、読み書き、計算だけを教えていたら、世の中はずっと良くなっていたでしょう。学校で「性教育」なんかしないで、家庭にまかせておいたら、一〇代で親になったり、一七歳の未婚の母親が福祉のお世話になったり、世の中がいまほど物騒ではなかったと思いますね。若い世代が好き放題にして自分たちのモラルをつくり出すのを放っておかずに、わたしたちと同じモラルを守れと言っていたら、かつての活気ある大国が、いまほど落ちぶれることもなかったんです。それに、もうひとつ。アメリカがヒロシマやナガサキにしたことは「悪」だったと思うべきだなんて、おっしゃらないでください。わたしたちは、戦争を終わらせたんですよ。何千人もの生命を救ったんです。しかも、敵味方、両方の人命です。あれは戦争の代償だった。誰もあんな決断はしたくなかったが、そうするしかなかったんです。

ほう。

そうですとも。まるで、ピンクがかったリベラルな共産主義者みたいなことをおっしゃいますね。歴史を見直せとおっしゃる。いいでしょう。自分の足もとがゆらぐような見直しをしろとおっしゃるんですね。そんなことをしたら、リベラル派に支配されてしまいますよ。世界は乗っ取られて、退廃的な社会が生まれる。富の再配分が行われる。人民の権力だの何だのって、たわごとが始まるでしょう。だけど、そんなことになったって、結局、何も達成されないんです。わたしたちに必要なのは過去に戻ること、父祖たちの価値観に戻ることですよ。それこそが、いま、必要なんです!

言いたいことはそれだけかな?

ええ、それだけです。いかがですか?

けっこう。なるほど、たいしたものだ。ラジオのトークショーを何年か聞いていると、こういう主張がうまくなるんです。 地球の人間はそんなふうに考えている、そうなのだね?

ええ、たぶんね。それもアメリカだけじゃないですよ。国がかわり、戦争の名前がかわっても同じでしょう。歴史上のべつの国の軍事行動にあてはめれば、同じことが言えます。誰だって、自分は正しいと考えている。相手のほうが間違っていると思っている。ヒロシマのかわりにベルリンでも、ボスニアでも同じことですよ。また、誰でも、古い価値観のほうが良かったと思っています。世の中がめちゃくちゃになりかけているのはわかっている。アメリカだけじゃない。世界中です。古い価値観に返れ、ナショナリズムに返れと、世界中で声があがっています。

それは知っているよ。

さっきのは、そういう主張を極端に言ってみたんです。

なかなか、うまかったよ。もう少しで、説得されるところだった。

そうですか?では、ああいう考え方をしているひとたちに向かって、どうおっしゃいますか?

ほんとうに、三〇年前、四〇年前、五〇年前のほうが良かったと思っているのか、とたずねよう。記憶はあてにならないものだ。良いことは覚えているが、悪いことは忘れる。それが自然、当然なのだよ。だが、だまされてはいけない。ほかのひとに押しつけられたことを記憶するだけではなく、批判的な考え方をしてごらん。さっきの例で言えば、ほんとうにヒロシマに原爆を落とす必要があったと思うかね?事実を知っていたたくさんのひとたちの報告を研究したアメリカの歴史家は、何と言っているか?日本帝国は原爆投下以前に、戦争を終わらせたいとひそかにアメリカに打診していた。原爆を投下するという決断のどれくらいの部分が、真珠湾攻撃への復讐だったのか?仮にヒロシマの原爆投下が必要だったとしても、それではなぜ、二度めの原爆投下が必要だったのだろう?
もちろん、あなたの言うほうが正解かもしれない。アメリカの見方のほうが事実の的を射ていたかもしれない。だが、議論の核心はそこにはない。あなたがたの教育システムは、こうした問題について批判的な考え方を許さないという点、それが問題なのだ。ほかのたくさんのことがらについてもね。アイオワ州で社会と歴史の先生が生徒たちに、そういうことがらについて突っこんで考え、自分たちで結論を出してみようと呼びかけたら、どうなると思う?
そこが問題なのだ!あなたがたは子供たちが自分なりの結論を出すことを嫌う。あなたがたと同じ結論を出させたがる。だから、子供たちはあなたがたと同じ過ちをくり返すのだよ。

でも、おおぜいのひとが古い価値観と現代の社会の崩壊について言っていることをどう思われますか?一〇代の出産の信じられない増加、福祉に頼る母親、物騒な世の中については、どうですか?

あなたがたの世界は物騒になった。それはそのとおりだ。だが、学校で教えたことのためにそうなったのではない。学校で教えなかったから、そうなったのだ。あなたがたは、愛がすべてだと学校で教えなかった。無条件の愛について学校で語らせなかった。

そうなんです、宗教について話すこともできないんですよ。

そのとおり。それに、自分と自分の身体に、人間らしさに、すばらしい性的な自己に、誇りと歓びをもつことを子供たちに教えようとしない。また、子供たちが肉体に宿る霊的な存在であることを知らせようとしない。肉体に宿った霊的な存在として、子供たちを扱おうともしない。
セクシュアリティについておおっぴらに語り、自由に議論し、明るく説明し、体験をさせる、高度に発達した社会では、すべての出産が祝われ、すべての母子が幸せになるように気を配られる。最も強い権力者の見方で歴史がゆがめられたりしない社会では、過去の過ちを堂々と認め、決してくり返さないし、自己破壊的な行動は一度起これば充分だ。
単に事実を記憶させるだけでなく、批判的な考え方と問題解決法や生きる技術が教えられている社会では、過去の「正当化」しうる行動でさえ、徹底した吟味の対象になる。なにごとも、うわべの価値のまま受け入れられはしない。

でも、それでどうしてうまくいくんですか?たとえば、第二次世界大戦です。学校でヒロシマの歴史をとりあげる場合、単なる事実ではなくて、生きる技術を教えることなんかできますか?

教室では、起こったことを正確に語ればいい。そこに至るまでのすべての事実──あますところのないすべての事実──を語るのだ。教師たちは敵と味方、両方の歴史家の見解を調べ、すべてに複数の見方があることに気づくだろう。生徒たちに事実を記憶しろと言わなくなるだろう。そのかわりに、「さあ、すべてを話したよ。事前のさまざまなこと、事後のさまざまなことも話した。この出来事について、入手しうるかぎりの事実をきみたちは知った。この『知識』からどんな『智恵』が生まれるだろう?きみたちがこの問題を解決する立場だったら、原爆投下によって解決された問題を、どう解決するだろう?もっと良い方法を考えつくかな?」と生徒たちに、問題を投げかけるだろう。

ああ、そうですね。それは簡単だ。それなら、誰だって答えられます。後知恵っていうやつですよ。過去を振り返れば、誰だって「ほかのやり方があったのに」と思いますよ。

それでは、どうして実行しない?

はあ、何とおっしゃいました?

どうして実行しないのか、と言ったのだよ。どうして過去を振り返り、過去に学んで、べつのやり方をしないのかね?どうしてだか、教えようか?子供たちに過去を振り返らせて、批判的に分析させると──教育のなかでそうしむけると──あなたがたの行動に賛成しないかもしれない。その危険があるのが怖いのだ。もちろん、子供たちは賛成しないだろう。あなたがたは、学校で子供たちにあまり批判させない。だから彼らは街に出る。プラカードを振りまわす。徴兵カードを破り捨てる。ブラジャーや国旗を焼き捨てる。あなたがたの注意をひくため、思い知らせるために、何でもする。若者たちは、つねに『もっと良い方法があるはずだ!』と叫んできたのだ。だが、あなたがたはその声を聞かない。聞きたがらない。それに、学校であなたがたが与えた事実を、批判されるのを好まない。ただ、受け入れろ、あなたがたはそう言う。わたしたちのやってきたことを間違いだと言うな。わたしたちは正しかった、おとなしくそう思え。
あなたがたは、そんなふうに子供を教育している。それを教育と呼んでいる。

でもこの国や世界をめちゃくちゃにしたのは、いかれた若者の狂気だと言うひとたちもいます。世の中をだめにしたのは若者だ。世の中が滅びかけているのは若者のせいだ。わたしたちの価値観にもとづく文化を破壊し、好き勝手なことをすればいい、「気分の良いこと」をしようと言い出して、わたしたちの暮らし方をおびやかしているのは、若者たちの生き方だって。

そう、若者たちはあなたがたの暮らし方を破壊している。若者とはつねにそういうものだ。だから、あなたがたは彼らを抑えるのではなく、励まさなければいけない。
熱帯雨林を破壊しているのは、若者ではない。彼らは熱帯雨林の破壊をやめさせようとしているのだ。破壊しないでくれと言っている。オゾン層を破壊しているのも、若者ではない。世界中で、ひどい労働条件で貧しい人びとを働かせて搾取しているのは、若者ではない。死ぬほどの税金をとって、その金を戦争や武器に使うのは若者ではない。弱者や恵まれない人たちの問題を無視し、すべての人びとを養ってあまりある地球に暮らしながら、毎日何百人もの人びとを餓死させているのは、若者ではない。彼らは、そういうことはやめてくれと言っている。
偽りに満ち、ひとの心をあやつる政治を行っているのは、若者ではない。性的に抑圧され、自分の身体に恥辱感をいだかされて、その恥辱感を子供たちに伝えているのは、若者ではない。「カは正義なり」という価値システムをつくりあげ、暴力で問題を解決する世界にしたのは、若者ではない。彼らは、そういうことはやめてくれと言っている。やめてくれと言っているどころか……哀願している。

でも、暴力的なのは若者のほうですよ!若者は群れて殺しあっている!法と秩序をばかにしている。どんな秩序でもおかまいなしだ。わたしたちを気も狂わんばかりにさせるのは、若者ですよ!

 世界を変えようという若者の叫びや願いが聞き入れられず、叶えられないとき、若者の理想が押しつぶされるとき──あなたがたが強引に自分たちのやり方を押し通すとき──愚かでない若者は、次善の行動をとる。あなたがたを説得できないのなら、と、あなたがたと同じことを始める。
若者はあなたがたと同じ行動をとっている。彼らが暴力的なら、それはあなたがたが暴力的だからだ。彼らが物質主義者なら、それはあなたがたが物質主義者だからだ。彼らが狂気じみたふるまいをするなら、それはあなたがたが狂気じみたふるまいをするからだ。彼らが性を道具として、恥ずかしいものとして無責任に扱うなら、それはあなたがたが同じことをしているからだ。若者と年長者たちとのちがいはただひとつ、若者はおおっぴらに行動するというだけだ。
年長者は隠れて行動する。年長者は若者には見られていないと思っている。だが、若者はすべてを見ている。何も隠してはおけない。若者は年長者の偽善を見て、必死でそれを変えようとする。どんなにがんばっても変えられないと、自分もまねするしかないと思う。その点は彼らが間違っている。しかし、彼らはほかの方法を教えられたことがないのだ。年長者の行いを批判的に分析することを許されなかった。ただ、記憶しろと言われてきただけだ。記憶させたことは、受け継がれて残っていく。

それじゃ、どんなふうに若者を教育すべきなんですか?

 第一に、彼らを霊的な存在として扱いなさい。彼らは、物理的な肉体に宿った魂だ。魂にとって、肉体に宿ることはやさしいことではない。肉体に慣れるのもやさしいことではない。とても窮屈で、せまくるしいものだ。だから子供たちは息苦しくてふいに泣き出す。その泣き声を聞いてやりなさい。理解してやりなさい。そして、子供たちにできるだけ「ひろやかな」気持ちをもたせてやりなさい。つぎに、思いやりと優しさで築いた世界を教えてやりなさい。子供たちが何を記憶のなかへとりこむかに、充分に心配りをし、慎重でありなさい。
子供たちは見たこと、経験したことをすべて記憶する。どうして、子宮から出たとたんに赤ん坊を叩くのか?ほんとうに、そうしなければエンジンが動き出さないと思っているのか?どうして、それまで知っていた唯一の命のあり方から切り離されたとたん、母親から赤ん坊を引き離すのか?身長や体重をはかったり、つつきまわすのはもう少しあとにして、まず母親という、命を与えてくれた存在の、安らぎと心地よさを味わわせてやってもいいのではないか?
どうして、ほんの幼いころの最初のイメージを暴力的なものにするのか?どうして、それが子供のためだなどと言うのか?そして、どうして愛のイメージを隠しておくのか?
どうして、あなたがたは子供たちが自分の身体とその機能を恥ずかしがったり、とまどったりするようにしむけるのか?喜びについて、あなたがたはどんなメッセージを子供たちに与えているのか?身体について、どんなことを教えているのか?
どうして、子供たちを競争が許され、むしろ奨励される学校へ入れ、「最高」で「いちばん多く」を学んだものに褒美を与えて「成績」を評価するのか?自分自身のペースで進ませてやらないのか?そんなやり方から、子供たちは何を学ぶと思う?
どうして、子供たちに動きや音楽、芸術の喜び、おとぎ話の神秘、生命の驚異を教えないのか?どうして、子供のなかに自然にあるものを引き出さずに、不自然なことを強要するのか?
また、どうして子供たちに論理と批判的な考え方、問題解決、創造、自分の直感と最も深い内面的な知識という道具の使用方法を学ばせず、すでに破綻しているのになお継続されているルールや、社会のシステムや、結論を記憶させるのか?最後に、ものではなく概念を教えなさい。
つぎの三つの基本概念を中心にした、新しいカリキュラムを考えなさい。
───認識──誠実──責任
子供たちに幼いころから、この概念を教えなさい。カリキュラムの最後まで、この三つの筋を通しなさい。教育のモデルをこの三つにおきなさい。すべての指導を、この三つから始めなさい。

それがどういうことを意味するのか、よくわからないのですが。

子供たちに教えることはすべて、この三つの概念をもとにするという意味だよ。

もっと説明していただけますか?読み書き、計算はどうやって教えるんですか?

初級からもっと上級まで、子供たちが読むすべてのお話、物語、教科の内容は、この中核的な概念を軸にする。認識の物語、誠実を扱った物語、責任の物語だよ。子供たちは、この概念を教えられ、植えこまれ、この概念にひたる。書くことも同じく、このコアとなる概念が中心になる。それに、子供たちの自分を表現する能力が発達するにつれて、課される教科も同じことだ。
計算技術も、この枠組みのなかで教えられる。算数と数学は抽象ではなく、生きるための宇宙で最も基本的な道具だ。すべての計算技術の教育は、もっと大きな人生体験のなかで位置づけられ、コアとなる概念とその関連事項に関心をもち、そこに重点をおくようにしむけられる。

「関連事項」といいますと?

よく使われる言い方をすれば、「派生物」だ。事実を基本にしたいまのカリキュラムにかわって、この派生物を基本に、教育モデル全体を築けばいい。

たとえば?

想像力を使ってごらん。人生で大切な概念とは何だろうね?

そうですね、さっきおっしゃった誠実さかな。

それはコアとなる概念だ。そのあとは?

うーん……公平さ。これも大切だと思います。

そうそう。それから?

ひとに親切に優しくすること。それも、大切です。概念としては、どう言えばいいかわかりませんが。子供たちには、そういうことを教えたいですね。

続けなさい。思いつくままでいい。

仲良くすること。寛容であること。ひとを傷つけないこと。ひとを平等に見ること。

よろしい。すばらしいよ!続けてごらん。

うーん……自分を信じること。それも、大事ですね。それから、えーと……待ってくださいよ……のどまで出かかっているんだがな……そうだ、毅然とすることですね。概念としては、よくつかめませんが、生き方にかかわることです。それに他人を尊重し、他人の生き方を尊重すること。

それもいいよ。みんないい。ほかにも、子供たちが完全な人間として成長するために、深く理解しておくべきことがたくさんある。いま話したことは人生でいちばん大切なことなのに、学校ではそういうことを教えていない。誠実とはどういうことか。責任とは何か。ひとの気持ちを認識し、ひとの生き方を尊重するとはどういうことか。それは親が教えることだという。だが、親は自分が教えられたことを伝えるだけだ。父親の罪は息子に伝わる。家庭では、親がその親に教えられたことを教えるしかない。

それのどこがいけないんですか?

何度も言うが、最近、世の中を眺めてみたことがあるかね?

いつも、そこへ戻るんですね。いつも、世の中を見ろとおっしゃる。だが、何もかもがわたしたちのせいじゃないですよ。世の中のことで非難されるいわれはないと思うな。

非難ではなく、選択の問題だ。人類がしてきた選択、いまもしている選択の責任があなたにないのなら、誰に責任があるのかな?

でも、すべての責任は負えませんよ。

いいかね。あなたがたがすべてに責任を負うまでは、何も変えられないのだよ。
彼らがやったんだ、彼らがやってるんだ、彼らがちゃんとすればいいんだ、と言いつづけてはいられないのだ!ウォルト・ケリーの漫画のキャラクター、ポゴのすばらしい台詞を覚えているかな──。「敵に会ったんだ。そうしたら、それがぼくたちなんだ」、あれを忘れないほうがいい。

ぼくたちは何百年も同じ過ちをくり返してきた、そうなんですね……。

何千年もだよ。同じ過ちを何千年もくり返してきた。人類はいちばん基本的なところで、原始時代からあまり進歩していないね。しかも、なんとか変えようという試みは、みなばかにされ、笑われる。価値観を見なおし、創りなおそうという試みさえ、恐怖や怒りにはばまれる。それなのに、わたしはさらに、学校でもっと高い概念を教えなさいと言う。これは、危ない橋を渡ることだ。だが、高度に発達した社会では、そのとおりのことが行われるのだよ。

でも、問題はそうした概念が何を意味するかについて、万人の意見が一致しているわけではないってことでしょう。だから学校で教えられないんです。そんなことを導入しようとしたら、親たちが半狂乱になる。「価値観」を教えようとしている、学校はそういう場所ではないって、言い出します。

それは親たちが間違っている!もちろん、人間がもっと良い世界を築きたがっているとしての話だが。学校はまさに、そういうことを教える場所だ。学校が、親たちの思いこみや偏見から切り離された場所だからこそ、そういうことを教えるべきなのだ。親から子へ価値観が伝えられてきた結果がどうなったか、よく知っているだろう。地球はめちゃくちゃじゃないか。
あなたがたは、文明社会の最も基本的な概念を理解していない。
どうやって、暴力なしに紛争を解決するかを知らない。
どうやって、恐怖のない暮らしをするかを知らない。
どうやって、利己的でないふるまいをするかを知らない。
どうやって、無条件に愛するかを知らない。
これは基本的な──ごく基本的な──理解だが、あなたがたは充分な理解に近づきはじめてすらいない。まして実行など、お話にならない……何千年もの時が流れたというのに。

いまの混乱から脱出する方法はあるんですか?

あるとも!学校だよ!子供たちの教育だ!希望はつぎの世代に、そしてさらにつぎの世代にある!だが、子供たちに過去のやり方を押しつけるのは、やめなくてはいけない。過去のやり方ではうまくいかなかったじゃないか。あなたが望んでいると言うところには到達できなかった。注意しないと、いま向かっているところに、ほんとうに到達してしまうよ!
だから、足を止めなさい!ともに腰をおろし、頭を寄せて考えなさい。人類として最も偉大なヴィジョンのなかでも、最も偉大なヴィジョンを創造しなさい。それから、そのヴィジョンを支えている価値観と概念を学校で教えなさい。
たとえば、こんな教科があってもいい……。
①力の理解
②紛争の平和的な解決
③愛情ある関係の要素
④個性と自己創造
⑤身体と精神と魂……これらはどう機能するか
⑥創造性の発揮
⑦自己への誇りと喜び、他者の尊重
⑧喜ばしい性的表現
⑨公平
⑩寛容
⑪多様性と類似性
⑫倫理経済学
⑬創造的な意識と精神力
⑭認識と目覚め
⑮誠実と責任
⑯可視性と透視力
⑰科学と霊性

そういうことの多くは、いまでも教えられていますよ。社会科という科目で。

わたしが言っているのは、週に二日、一学期間という単位のことではないよ。それぞれの項目について、べつべつの科目を設けたらどうかというのだ。学校のカリキュラムを根底から見なおしなさいと言っている。価値観にもとづいたカリキュラムだ。いまは、ほとんど事実にもとづいて教えている。子供たちにはできるだけコアとなる概念を理解させなさい。日付や事実や統計数字を中心にするのではなくて、価値観を中心にした論理的構造を創りあげることに関心を向けさせなさい。
あなたがたの銀河系や宇宙のなかで、高度に発展した社会では(どこの社会のことかは三冊めの対話でくわしく話すことにしよう)、子供たちがごく幼いころから、生きるための概念を教えている。あなたがたが「事実」と呼ぶものはさほど重要でないと考えられ、もっとあとになってから教えられる。地球であなたがたが創った社会では、ジョニー坊やは幼稚園のうちに読むことを覚えるが、どうすれば兄弟にかみつかなくなるかはわからないままだ。スージーは小学校の低学年で九九を覚え、見せられたカードをすばやく読みとったり、暗記したりもするが、自分の身体を恥ずかしがったり、とまどったりしなくてもいいということは教えてもらえない。
いまのあなたがたの教育システムは答えを出すことを主にしている。だが、問いかけることを主眼にしたほうが、ずっと役に立つだろうに。誠実とはどういうことか?責任感とは?「公正」とは?ものごとの意味とは?2+2が4だというのはどういうことか?どんな意味をもっているのか?
高度に発達した社会では、すべての子供たちに自分で答えを見つけなさい、創りなさいと励ます。

しかし……それじゃ収拾がつかなくなってしまいます!

あなたがたが暮らしている社会は、収拾がついているのかな……。

そうは言えませんが……それじゃ、もっと収拾がつかなくなると言いましょう。

べつに、あなたがたが習ったことや、決定したことを、いっさい学校で教えないほうがいいと言っているわけではないよ。それどころか、まったく逆だ。学校で年長者たちが過去に何を学び、何を発見し、何を決定してきたかをすべて教えたとき、それははじめて役立つ。すべてがどんなふうになったか、生徒たちは観察できるからね。ところが、あなたがたは、そういうデータを「正しいこと」として教えている。データはありのまま、見せてやるべきなんだよ、データとしてね。
過去のデータを現在の真実の基礎にしてはいけない。前の時代や体験のデータは、つねに新しい問いかけの基礎で、それ以上のものではない。宝はいつも、答えではなくて、問いかけのなかにある。
そして、問いかけはいつも同じだ。あなたの前にある過去のデータを見て、あなたは同意するか、反対するか?あなたはどう考えるか?いつも、鍵になるのはこの問いかけだ。つねに、これが焦点だよ。あなたはどう思うか?それが大切なのだ。
子供たちはきっと、親の価値観を問いかけるだろう。子供たちが自分の価値観を創りあげるうえで、親はいつだって、大きな役割をになっている。最大の役割と言っていい。学校は初等教育から高等教育まで一貫して子供たちに、自分自身の価値観を探しなさい、その価値観をどう活用するか、どう応用するか、機能させるか──さらには、どう問いかけるかを追求しなさいと励ますべきだ。子供たちに価値観を問われたくないという親は、子供を愛していない親だよ。子供を愛しているのではなく、子供を通じて自分を愛している親だ。

おっしゃるような学校があればいいと思います──ほんとうに、あればいいなと思いますよ!

そう努力している学校はあるよ。

ありますか?

あるとも、ルドルフ・シュタイナーというひとが書いたものを読んでごらん.彼が創設したウォルドルフ・スクールという方式を勉強してごらん。

ああ、もちろん、その学校のことは知ってます。これ、コマーシャルですか?

いや、観察だ。

だって、ウォルドルフ・スクールのことならわたしはくわしいですからね。ご存じでしょうけれど。

知っているとも。あなたの人生のすべてが、いま、この瞬間につながっているのだから。わたしは、何年も前から、あなたの思いつきや体験を通じて、話しかけていた。

ウォルドルフ・スクールがベストだとおっしゃるのですか?

いや、人類があなたの言うような道を願い、あなたがこうしたい、こうありたいと言っているとおりのことを願っているとすれば、あの方式は有効だと言っている。ひとつの例としてあげたのだよ。どうすれば単純な「知識」ではなく「智恵」に重点をおいた教育ができるか、ほかにも例はあげられる──あなたがたの星、あなたがたの社会ではごく少ないがね。

 ええ、わたしもあの方式には大賛成です。ウォルドルフ・スクールとほかの学校には、いろいろとちがいがありますね。例をあげてみましょうか。単純だが、印象的な例だと思いますよ。
ウォルドルフ・スクールでは、先生も幼稚園から小学校まで一緒に進級していきます。子供たちはずっと、同じ先生に教わるんです。次つぎにかわるんじゃなくてね。子供たちと先生に、どれほど強い絆が育つか、想像できますか?それにどんな価値があるか、わかりますか?
先生たちは、子供たちをわが子のようによく知ることになります。子供たちも、ふつうの学校では考えられないほど、先生を信頼し、愛するようになります。子供たちが卒業すると、先生はまた最初の学年に戻り、べつのグループの子供たちと一から始めます。ウォルドルフの先生は、生涯に四つか五つのグループの子供しか教えないでしょう。でも、その子供たちにとっては、ふつうの学校の先生とはくらべものにならないほど、大切な意味をもっています。あそこの教育では、そういうパラダイムのなかで共有される人間関係と絆、愛は、先生が教える事実と同じくらい大切だと考えているんです。家庭の外のもうひとつの家庭のような学校ですね──。ほかにも良い教育方法がありますか?

あるよ。教育に関しては、あなたがたはいちおう進歩している。ただし、非常に遅い歩みではあるがね。公立学校で目標を重視し、技術を身につけることに重点をおいたカリキュラムを導入しようとしただけで、大反対にぶつかる。そんなのは危険だとか、非効率的だと思う。子供たちに事実を覚えさせたがる。しかし、進歩しているところもあることはある。まだまだ、道は遠いがね。
それに、人類があなたが言うような方向に進みたがっているとすれば、教育はオーバーホールをしたほうがいい、数多くの人間経験のたったひとつにすぎない。

そうですね。政治の分野でも、変革が必要なんでしょうね。

まさに、そのとおり。

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