いやいや、わたしが言うのは、ふつうはひとりのためにとっておく親密で個人的な愛のことなんです。少なくとも、一度にひとりだけに感じる愛ですよ!
どうして、愛を「とっておく」のかな?どうして、「しまって」おきたがる?だって、「そんなふうに」複数の人を愛するなんて、正しくないですよ。裏切りじゃないですか。
誰がそんなことを言った?誰でも言いますよ。みんなが言ってます。両親も言いました。宗教もそう教えている。世間だってそう言います。誰でもみんな、そう言います!
それは「父の罪」が息子に伝えられると言うたぐいだな。そうなんです!そのとおりなんですよ!わたしたちはそういうふうにできてるんです!
それは真の愛を表現しているのではない。それとは逆のものだよ。人間の経験という枠組みのなかで、真の愛はどこまで表現を許されるんでしょうか? その表現にはどんな制約をもうけるべきなんですか(もうけなければいけない、と言うひとがいますね)? つきあいやセックスのエネルギーが制約なしに放出されたら、どんなことになりますか? つきあいやセックスの完全な自由は、すべての責任の放棄になるんでしょうか?
愛の自然な表現を妨げようとするのは、自由の否定だよ。したがって、魂そのものの否定だ。魂は人格化した自由だから。神はその定義からして自由だ。神に制限はなく、いかなる種類の制約もない。魂はミニチュア化した神だよ。したがって、魂は押しつけられるあらゆる制約に抵抗するし、外部からの束縛を受け入れるたびに新たな死を経験する。そうですね。だから、聞きたいんだと思います。それに、あらゆるところで、人間としての体験につらい制約を感じているひとたちみんなを代表して、おたずねしたい。制約といっても、物理的な制約だけじゃなく・・・・・。
わかっているよ。・・・・感情的、心理的な制約でもあるんです。
そう、わかっている。わかっているよ。だが、あなたの言うことはすべて、もっと大きな質問に関連がある。
そうですね。だが、終わりまで言わせてください。小さいときから、誰でも思いどおりに愛したいのに、愛させてもらえないことに、すごくいらだっていたんです。
小さいときは、知らないひとと話しちゃいけない、場違いなことを言ってはいけないと言われました。いまでも覚えていますが、あるとき、父と通りを歩いていたら、小銭を恵んでくれという貧しい人に出会ったんです。すぐに気の毒に思って、ポケットに入れていた小銭をあげようとしました。
そうしたら父が止めて、にべもなく言いました。「ゴミだ、あんなのはただのゴミだ」って。父には父の価値基準があって、それに達していないと思う人間はみんなゴミだとレッテルを貼ったんです。
その後、兄の事件がありました。兄はもう家を出て独立していたんですが、父と口論したためにクリスマス・イヴに家に入れてもらえなかった。わたしは兄が好きだったし、イヴには家族一緒に過ごしたかったのに、父は玄関で立ちはだかり、兄を入れませんでした。母は悲嘆にくれていましたよ(兄は、前の夫との間に生まれた子供だったんです)。
わたしは不思議でならなかった。たかが口論で、クリスマス・イヴに兄を愛することも、一緒にいることも拒絶するなんてことがあるんだろうか? どんなひどいいさかいがあったとしても、クリスマスを台なしにするほどのことだろうか。交戦国でさえ、二四時間の休戦をするというのに。7歳のわたしは不思議でたまらなかったんですよ。
おとなになってから、怒りだけでなく、不安も愛の流れを妨げるのを知りました。
だからおとなも、知らないひとと話してはいけない子供と同じです。見知らぬ人に心を開いて親しくつきあっちゃいけないし、はじめて紹介された相手には、守るべきエチケットがある。どれも、わたしには納得がいきませんが。わたしは出会ったひとのすべてが知りたいし、自分のすべてを知ってもらいたい! でも、ノー、それはいけない。待て、時間をかけろ。それがルールなんです。
大人になってセクシュアリティの問題が登場してくると、ルールはさらに厳しく、制約的になりました。わたしには、それも納得がいかないんです。
わたしはただ愛し、愛されたい。自然だと感じる方法ですべてのひとを愛したい、気持ちのいい方法で愛したい。ところが、社会にはいろいろと厳しいルールと規制があります。規制が厳しいから、たとえ相手が同意していても、社会が同意しなければ、恋人たちは「間違っている」と言われるし、結局そうなるように運命づけられている。いったい、これは何なんですか?
そうですね。だが、その不安は正当ですよね? わたしたち人間のふるまいを考えれば、そういう制約や束縛は適切なのではありませんか? たとえば、男が若い女性と出会い、恋に落ちる(あるいは「肉欲」を感じる)。そして、妻を捨てる。三九歳の妻は子供をかかえ、身につけた技術もないから就職もできない。あるいは、もっとひどいことに、年老いた六四歳の妻が、自分の娘よりも若い女性に血道をあげた六八歳の男に捨てられる。
あなたが例にあげた男は、六四歳の妻をもう愛していないと思うか?行動を見れば、そういうことになりますね。
いや、そうじゃないよ。彼は妻を愛していないから、逃げ出したくなったのじゃない。自分に押しつけられたと感じる制約から逃げようとしているんだよ。そんなばかな。だって、単純な肉欲にすぎないじゃないですか。じいさんが若い女と暮らして、若さをとり戻したがっているだけです。子供っぽい欲望を抑えられず、つらい厳しい人生をともに歩んできたパートナーへの約束を守れなくなっただけじゃないですか。
もちろん、あなたの言う通りだよ。そうだからって、わたしがさっき言ったこととは何の関係もないがね。どんな場合でも、そういう男は妻を愛さなくなったんじゃない。妻が彼に押しつける制約、あるいは妻と別れないのならつきあわないという若い女性が課す制約、それが男の反抗を生むのだ。わたしが言おうとしているのは、魂はつねに制約に反抗するということだ。あらゆる種類の制約に抵抗する。人類史上のあらゆる革命の火花はそれだよ。妻に対する男の反乱だけじゃない。突然、夫を捨てる妻の抵抗だけじゃない(これも、よくあることだ)。まさか、人間のふるまいからあらゆる制約をとりはらってしまえ、とおっしゃるんじゃないですよね! それじゃ、道徳的無政府主義になってしまいます。社会は大混乱になる。あなたは「情事」をするひとたちを弁護なさるわけじゃないですよね。いわゆる「開かれた結婚」という、あれですが!
わたしは弁護もしないし、非難もしない。何についても「賛成」したり「反対」したりはしない。わたしはただ、事実を観察している。あなたがたが善悪のシステムをつくり出し、賛成したり反対したりするのを眺めているだけだ。人類として、個人として、自分はこれこれのことを選び、望むというなら、いまの考え方がその目的に役立つかどうかを見ているだけだ。やれやれ(God)、ますますイライラしてきたな。だって、その答えはあんまり漠然としていて一般的で、ぜんぜん、ほかの問いへの答えになりません。
ほう、そうかな? それでは、その答えとは何なのだね?あなたがこの対話でおっしゃっていると思われることを基準にすれば、わたしは「愛」です。それが、ほんとうのわたしです。
すばらしい! わかったじゃないか! そのとおりだよ。あなたは愛だ。存在するのは愛、それだけだ。だからあなたは愛であり、わたしは愛であり、愛でないものは何もない。それじゃ、不安はどうなんですか?
不安は、ほんとうのあなたではない。不安はほんとうのように見えるが、偽りの証(あかし)だ。不安は愛の対極で、ほんとうの自分を経験的に知るために現実のなかで創り出したものだ。あなたがたの相対的な世界での真実とは、こういうことだ。自分でないものが存在しなければ、あなたも 存在しない。そう、そうですね。何度もうかがいました。だが、わたしはどうもはぐらかされているような気がするんですよ。自分とは何者か、という問いへの答え(それは愛である)は、あんまり漠然としていて一般的で、他の問いへの答えにはならない。わたしは、そう言ったんです。あなたはそれがすべての問いへの答えだとおっしゃるが、「開かれた結婚をするべきか?」という具体的な問いへの答えはもちろん、どんな問いへの答えにもなっていないとわたしは思うんですよ。
本当にそう思うのなら、あなたには愛がわかっていないのだよ。みんな、そうなんじゃありませんか? 人間は、時のはじまりから、そのことをわかろうとしてきたんです。
そんなものはない。ああ、時のはじまりなんてものはないんですね。いいですよ、わかってます。ただの言葉のあやですよ。
では、あなたの言う、「言葉のあや」を使って、愛とは何かを説明できるかどうか、やってみよう。ぜひお願いします。
最初に浮かぶ言葉は、無制限ということだな。愛とは無制限だ。それじゃ、振り出しに戻ってしまいますよ。同じ輪の上の堂々めぐりです。
輪というものはいいものだよ。悪くいうものではない。めぐりつづけなさい。問題のまわりをめぐりつづけなさい。めぐるのはいいことだ。くり返しもいい。再訪も、言葉のくり返しもけっこう。ときどき、イライラしてくるんだがなあ。
ときどき? それはおかしなことを聞くね。わかりました、わかりましたよ。先を続けてください。
愛とは、無制限なものだ。はじまりもなければ終わりもない。以前も以後もない。だから、愛はつねにある。つねに現実だ。「遅かれ早かれ」とは、どういうことですか?
いつ、不安を克服するかによる、ということだよ。さっきも言ったとおり、不安はほんとうのように見えるが、偽りの証だ。ほんとうのあなたがたではない。不安を経験したいなんて、誰が思うんでしょう?
誰も思いはしない。教えられたのだ。でも、子供たちは美しい無邪気さからそうするんです。おとなは、そんな無邪気さをとり戻すことはできません。おとなが「裸」になったら、つねにセックスみたいなことがつきまといますから。
そうだね。そして、もちろん、神は「セックスみたいなこと」が無邪気に自由に表現されるのを禁じているわけだ。そう、神は禁じたんです。アダムとイヴは裸でエデンの園を走りまわって幸せだった。ただし、イブが木の実を、善悪を知る智恵の木の実を食べるまではね。そのとき、あなたは、わたしたちにいまの状況を宣告なさった。わたしたちすべてが原罪を負ったのです。
そんなことはしないよ。わかっています。でも、ここで既存の組織的宗教に一矢(いっし)むくいておかなくちゃ。
できるなら、そんなことはしないほうがいいな。わかりました。そうですね。組織的宗教にはほとんどユーモアのセンスがないからなあ。
そらそら。すみません。
わたしが言ったのは・・・・人間という種は、無制限で永遠で自由な愛を経験したいと切望するということだ。結婚という制度は、永遠を創造しようとする試みだった。結婚によって、生涯のパートナーになることを約束しあおうとした。だが、「無制限」で「自由」な愛の創出にはあまり役立たなかったね。どうしてでしょう?結婚が自由に選ばれたものなら、自由の表現なのではありませんか?配偶者以外にはセクシュアルな愛を示したりしないというのは、制約ではなくて選択でしょう。選択は制約じゃなくて、自由の行使ですよね。
それが選択であるあいだは、そうだね。でも、そのはずですよ。約束なんだから。
そう・・・・そこがトラブルのもとだ。説明してください。
いいかね、関係性のなかで、もっと高次のとくべつさを経験したいと思うときが来るかもしれない。自分にとって誰かがとくべつだというのではなくて、すべてのひとへの(それに生命そのものへの)愛の深さを示す方法は相手によってちがう。それぞれ独特なものだということだ。それも、神聖な二分法ですね。すべては独特であり、すべてはひとつである。
そのとおり。手の指はみなちがっているが、しかし同じ手だ。ふう!なかなか厳しいお言葉ですね。誰にも何の約束もしてはいけないですか?
いまのほとんどの人生では、すべての約束に偽りが組みこまれている。将来、自分がどんなふうに感じるか、どうしたいと思うか、それがいまわかると考えるのが偽りなのだよ。ものごとに反応して生きていたら、そんなことがわかるはずはない。創造者として生きてはじめて、偽りのない約束ができる。宇宙には変わらないものはないとおっしゃるんですか? 創造のなかでは、つねに変わらずにいるものは何もない、そうおっしゃるんですか?
あなたがたが生命と呼んでいるプロセスは、再創造(re-creation)のプロセスだ。生命はすべて、瞬間、瞬間に自らを再創造しつづけている。このプロセスでは、同一は不可能だ。何かが、同一だったら、変化しないということだから。だが、同一は不可能でも、類似は不可能ではない。類似というのは、以前と驚くほど似たヴァージョンを創り出すという変化の結果だから。創造が高いレベルの類似に達したとき、あなたがたはそれを同一と呼ぶ。あなたがたの限られた視点から大ざっぱに見れば、同一なのだ。したがって、人間の目には、宇宙は偉大な不変性を保っているように見える。つまり、同じように見え、同じように行動し、同じように反応している。あなたがたは、それを不変だと思う。しかし、いいかな。物質的、非物質的なすべての生命の視点で見れば、見かけの不変性は消える。真実を経験する。つまり、つねに変化しているということだ。すると、ときには変化が非常に微妙でわずかなために、あまり敏感でないわたしたちには同じように見える、ときにはまったく同じに見えるけれど、じつはそうではないとおっしゃるのですか?
そのとおり。では、「瓜二つのふたごなどいない」ってことですね。
そうだ。よく、わかっているではないか。でも、わたしたちには不変に見えるほどそっくりなかたちで、自分自身を再創造する(re-create)ことができるんですね。
そう。人間関係も同じ。わたしたちは何者で、どうふるまうか、ということでも同じなんですね。
そう。ただし、たいていのひとは非常にむずかしいと思うだろう。でも、<マスター>でないひとたちだって、いつも「同じ」に見えますよ。行動も見てくれもあんまり予測可能なんで、命を賭けてもだいじょうぶだってひとたちを知っています。
しかし、それを意図的にするとなると、途方もない努力が必要だよ。だから、約束を守るのがむずかしいんですか?
それも、理由のひとつだ。前に言ったとおり、未来を予測できるようになるまでは、約束などできないのだよ。約束を守るのがむずかしい二つめの理由は、誠実さとぶつかるからだ。と、おっしゃいますと?
ほんとうの自分はいつもこうだと言っても、その後に変わる。だから、深い葛藤が生じる。どちらに従うべきか。ほんとうの自分か、約束した自分か?どうすればいいのか、アドバイスをお願いします。
他人を裏切らないために自分を裏切ること、それも裏切りだ。それは最高の裏切りだ。でも、それでは、そこらじゅうで約束が破られてしまいますよ! 誰のどんな言葉も意味をもたなくなってしまう。誰も信用できなくなってしまうじゃありませんか!
ほう、あなたはひとが約束を守ると信用していたのか? みじめだったのも無理はないな。どうしてみじめだったとおっしゃるんです?
いまの自分、いまの行動が幸せだった結果だと思うかい?いいです、わかりましたよ。たしかにみじめだったときもあります。
大部分はみじめだったろう。どこから見ても幸せなはずのときですら、あなたは自分をみじめにした。ほんとうに幸せでいられるのかと心配したからだ! そんな心配をせずにいられなかったのは、あなたの「幸せ」が、ひとが約束を守ってくれるかどうかで決まったからだ。すると、約束を守ってくれると期待する(少なくとも願う)権利もないとおっしゃるんですか?
どうして、そんな権利が欲しい?ええと、こういうことじゃないですか? 誰かが約束を守らなければわたしが傷つく、あるいはわたしの家族が傷つく。それを放っておくことになるからです。
すると、傷つくのを恐れて、ひとを傷つけるわけだ。約束を守ってもらうのが、傷つけることになるとは思いませんが。
しかし、向こうは傷ついたと思うだろうね。そうでなければ、約束を守っていたはずだ。すると、相手が約束を守って傷つくのを避けるために、自分の子供や家族が傷つくのを見ているべきなんですか?
ひとに無理やり約束を守らせて、それで自分たちは傷つかずにすむと思うか?ビジネスの世界でも同じですか? ビジネスの世界で、そんなやり方が通るものでしょうか?
それどころか、正気でビジネスをしようと思うなら、それが唯一の方法だ。法律的な力、つまり裁判所を通じた「司法の力」を使わないとしたら、どうやって企業を「説得」して、契約や合意を守らせるんですか?
あなたがたのいまの文明の倫理では、ほかに方法はないかもしれない。だが、文明の倫理が変化すれば、いま企業に(個人に)合意事項を履行させている方法は、非常に原始的に見えてくるだろう。もっと説明してくださいますか?
いまは、あなたがたは力で合意事項を履行させている。だが、文化的倫理が変化して、すべては「ひとつ」であるという理解が行きわたれば、決して力は使わないだろう。それでは、自分に被害を与えることになるからだ。右手で左手をたたくようなことはすまい。左手が自分の首を絞めていても、ですか?
そんなことも起こらなくなる。自分の顔が憎くて鼻にかみつくようなまねはしなくなるよ。合意を踏みにじったりもしなくなる。合意そのものが、いまとはずいぶん違ったものになるだろう。自分から出ていったものはすべて、自分に戻ってくるんですね。
七倍になって。だから、何を「とり戻せる」か、心配しなくていい。何を「与える」かだけを考えでいればいい。生きるとは、最上のものを得ることではなく、最上のものを与えることだ。
なるほど、わかりました。だが、どうも脱線したような感じなんですが。そもそも、わたしが愛についておたずねしたのが発端でした。人間はいつか、制約なしに愛を表現できるようになるのかと。
それから、「開かれた結婚」に話題が進展したんです。それが急に、脱線してしまいましたよ。
そうですね、そのこともすぐにお聞きしたいと思います。それでも、いまはこの問題に決着をつけたいんですが。あなたは、とても興味深いことをおっしゃった。要するに、ほとんどの人間は約束を守れないし、だから守るべきでもない、そういうふうに解釈したんです。そうすると、結婚という制度(institution)に大きな風穴があきますよ。
「施設(institution)」と言ったね。その言葉は気に入ったな。結婚しているひとのほとんどは、施設に入っているような気分でいるだろう。そう、精神障害者用の施設か矯正施設か、というところですね。少なくとも、上級学習施設かな。
まったく、そのとおり。ほとんどのひとは、そういう経験をしている。いやあ、冗談なんですけどね。だいたい「ほとんどのひと」ということはないでしょう。いまだって、何百万人もの人びとが、結婚という制度を愛し、守ろうとしていますよ。
それには異議があるね。ほとんどのひとは結婚で苦労しているし、その経験を好ましいとも思っていないよ。世界中の離婚統計がそれを物語っている。すると、結婚制度は廃止すべきだとおっしゃるんですか?
わたしはどうすべきだとか、すべきでないとかは言わない。ただ・・・・。わかっています、わかっていますよ。観察しているだけ。
ブラボー! あなたがたはいつも、どちらかに軍配をあげる神を求めるが、わたしはそうではない。いやあ、結婚制度に風穴をあけただけじゃなくて、宗教にも風穴があいてしまいましたね!
神は軍配をあげないことを人類すべてが理解すれば、宗教が存在できなくなるのは事実だね。宗教の目的とは、神がどちらに軍配をあげるかを言明することだから。あなたがどちらにも軍配をあげないのなら、宗教は偽りにちがいない。
それは厳しい言葉だな。わたしなら、フィクションと呼びたいね。あなたがたがでっちあげたものにすぎない。わたしは結婚制度を望んでいない。だが、あなたがたは望んでいるらしいな。なぜでしょう? むずかしいとわかっていて、わたしたちはなぜ結婚を望むのでしょうか?
それは、愛に「永続的」あるいは永遠をもたらしてくれる方法として、唯一考えついたのが結婚だからだ。女性にはサポートや生存が保証される唯一の方法で、男性にはつねにセックスとつれあいを保証してくれる唯一の方法だからだよ。どうして、そんなことになるんでしょう?
そういう誓いはふつう、唯一重要な法に矛盾するからだ。自然の法則に反するのだよ。しかし、「ひとつである」こと、それを表現するのが、生命あるものの自然でしょう。わたしはそう理解したんですが?結婚とは最も美しい表現ではありませんか。「神が結びたもうたものは、人間が離すことはできない」というじゃありませんか。
大半の結婚は、とくに美しくもないね。それは、人間の自然な真実の三つの側面に反するよ。もう一度、説明していただけますか? ようやく、わかりかけてきたようです。
よろしい。もう一度、順番にくり返そう。やれやれ、そんなふうには考えたことがなかったな。結婚というのは、究極的な愛の宣言だと思ってましたよ。
たしかにそう想像したのだが、できあがったものはちがった。できあがったのは、究極的な不安の宣言だ。つまり、セクシュアルに。
つまり、セクシュアルに。最後に、いまのあなたがたの結婚は、「この関係はとくべつだ。わたしはこの関係をほかのすべての上に置く」と言明することだ。それのどこがいけないんですか?
べつに。これは正邪の問題ではないよ。あなたがたにとって役立つかどうか、それが問題だ。ほんとうの自分が、「この関係、いまここにあるただ一つの関係が、ほかのすべてにくらべてとくべつだ」と言うのなら、結婚というしくみは完全にその目的にかなっている。だが、おもしろいことに、霊的な<マスター>と認められているひとたちは、ほとんど結婚していないはずだよ。ええ、<マスター>というものは独身だからですね。セックスはしないんだ。
そうじゃない。<マスター>はいまの結婚というしくみに、誠実に真摯(しんし)に従うことはできないからだ。つまり、ひとりの人間がほかの誰よりもとくべつだとは言えないからだよ。<マスター>はそんなことは言わない。神もそんなことは言わない。
驚いたな(my God)。待ってください、待ってくださいよ!
お話を聞いていると、結婚についてもっていた良いイメージがすべてつぶされてしまう! これが神の言葉であるはずがない。神が宗教や結婚について、こんなことを言うはずがありませんよ!
「正邪」がないのに、どうして何かが「間違い」だと言えるんですか?
間違いというのはただひとつ、目的にかなった機能をしないということだ。開閉しないドアは間違っているが、そのドアが「悪」だとは言わないだろう。ドアの取り付け方、動き方が間違っているというだけだ。目的に合っていない。あなたがたが人生で創りあげたもの、社会で創りあげたもので、人間としての目的にかなっていないものは間違っている。間違った仕組みだ。すると・・・・わたしたちはどうなりますか? 宗教を破壊し、結婚を見捨て、政府を否定した。そうすると、どうなるんですか?
第一に、わたしは何も破壊し、見捨て、否定していない。あなたがたが創った機構が機能せず、望むものを生み出さない場合、その状態をありのままに説明するのは、その機構を破壊し、見捨て、否定することではない。批判と観察のちがいを思い出してごらん。反論するつもりはないんですが、いままでおっしゃったことはかなり批判的に聞こえましたよ。
言葉の制約が大きくて、身動きがとれないのだよ。言葉が少なすぎるので、伝えようとするのが同じ意味でなくても、同じ考えでなくても、同じ言葉を何度もくり返し使わなければならない。なぜなんですか? なぜ、そんなことになっているんでしょう? この何年かで、どうしてもっと問題を解決できなかったんでしょう?
何年? 何世紀ではないか。いいです、何世紀もです。
それは、人間の最初の文化的な神話と、その後に続いたさまざまな神話のせいだ。それが変わるまでは、何も変わらない。文化の神話はあなたがたの倫理を伝え、倫理は行動を生み出す。問題は文化的な神話が基本的な直感と矛盾していることだ。と言いますと?
あなたがたの第一の文化的な神話は、人間が基本的に悪だと語る。原罪という神話だ。あなたがたの基本的な性質が悪だというだけでなく、そう生まれついているのだと言う。
そう、わかります。その「文化的神話」についても、もっと進んだ文明における行動や倫理についても、もっとあとで、くわしく話していただきたいと思います。でも、いまは、もう一度だけさっきの質問に戻って、そっちを解決しておきたいんですが。
あなたとお話ししていて困るのは、答えがあまりにもおもしろい方向に展開していくので、最初の話題を忘れてしまうことなんですよ。さっきは結婚について話していたんです。愛について、愛には何が必要かについて、話しあっていたんです。
それじゃ、あなたは結婚に反対なんだ!
わたしは何にも「反対」しない。ただ、見たままを語っているだけだ。言い換えれば、結婚の誓いを変えるんですね。
それだけではない。誓いの基本になっている期待を変える。その期待を変えるのは、なかなかむずかしいよ。文化的遺産だからね。それは文化的神話から生まれている。また文化的神話に話が戻りましたね。どうして、そればかりおっしゃるんですか?
正しい方向を教えてあげたいからだ。あなたがたの社会がめざすと言う場所がわかるから、どっちの方向へ行けばいいのかを人間の言葉で伝えようとしているのだよ。例をあげてみようか?お願いします。
あなたがたの愛に関する文化的神話のひとつは、愛とは受けるよりも与えるものだということだ。愛は受けるよりも与えるもの、じゃないんですか?
ちがう。そうだったことは一度もない。でも、あなた自身がおっしゃったじゃないですか。「愛は何も必要ない」って。それが愛だって。
そうだ。よく、わかっているではないか。それは、「受けるよりも与える」ことだというのと同じに聞こえますよ!
それでは、一冊目の対話の八章を読みなおしたほうがいいね。そこでみな説明してある。わかっています。でも、一冊目の対話を読んでいない人もいますよ。ですから、ここでも説明していただけませんか? 正直なところ、わたしも復習したいんです。いま、ようやく、わかりかけた感じですから!
よろしい。こういうことだよ。そういうのって、ときどき、言葉の「トリック」じゃないかと思いますよ。言葉をあやつって、意味をかえてしまってるんじゃないかって。
トリックではなく、魔術だよ!言葉をあやつって意味を変えているのではなくて、概念をあやつって経験を変えているのだ。あなたがたの経験はすべて概念にもとづいている。概念は理解に、理解は神話にもとづいている。神話、つまり教えられてきたことだ。他の種というのが存在するんですか?
ああ、もちろん。それじゃ、そのことを話してください。ずっと、待っていたんですよ。
もうすぐ、もうすぐだ。だが、まず、あなたがたが考え出した「結婚」をどうすれば変えられるか、そして、どうすればめざすところに近づけるかについて話そう。破壊したり、捨てたりすることはない。変えなさい。そう、たしかにそのことも知りたいですよ。人間に真の愛を表現させる方法がないものか、ずっと知りたかったんです。それでは、この章は最初の話題に戻って締めくくりましょう。愛の表現にはどんな制限を課したらいいか。ひとによっては、課さねばならない、と言うでしょうが。
何もない。制限はまったくない。結婚の誓いでも、それを宣言すべきなのだよ。驚いたな。だって、ナンシーと結婚するとき、わたしたちはそう誓ったんです。ナンシーと結婚しようと決めたとき、ふいに、新しい結婚の誓いをしようと思いついたんですよ。ナンシーも賛成してくれました。「伝統的な」結婚の誓いを交わすのは不可能だって、わかってくれたんです。
知っているよ。それで、一緒に「新しい」結婚の誓いを書いた。あなたの言う「文化的な規範を決めた」んです。
そう、そうだったね。よくやった。誇りに思うよ。牧師さんに読んでもらうために、あの誓いの言葉を紙に書きながら、これはインスピレーションだ、二人にインスピレーションが与えられたんだと感じましたね。
もちろん、そうだよ! わたしが、本を書かせるだけだと思ったのかな?そうなんだ!
そう、そうなんだよ。それでは、あの結婚の誓いをここに記したらどうだね?え?
記してごらん。コピーをもっているだろう。ここに書きなさい。この対話が始まるとき、これを世界に見せるとは思っていなかっただろう。さあ、記しなさい。「わたしたちは完璧な結婚の誓いを書いた!」なんて言っているように思われたくないですよ。
急に、ひとにどう思われるかが心配になったのか? いいかな、誰も「完璧な結婚の誓い」だなんて言わないよ。ただ、いままでのところ、地上で最善の誓いだ。そんな・・・・・!
なーに、冗談さ。からかっただけだよ。さあ、誓いをここに記しなさい。責任はわたしがとってあげるよ。みんなにもあの誓いをするよう、勧めたらいい。実際には「誓い」ではなくて、結婚の声明だがね。
それじゃ、そうします。ナンシーと結婚したとき、二人が宣言しあったのはこういうことでした。
・・・あのとき、「インスピレ-ション」をお与えになったことに感謝します。
結婚する理由は、安定を求めるからではない。
また、心の安定が得られるのは、相手を自分のものとして所有したり、支配したり、また所有されたり、支配されたりするからではない。
人生で必要なものを相手に要求したり、期待したり、希望するからですらない。
心の安定が得られるのは、人生で必要なもののすべて すなわち愛と智恵と洞察と、力と知識と理解と、慈しみと共感と強さのすべてが自分自身のなかに存在することを知っているからだ。
それを相手から得るためにではなく、お互いに贈りたいから、それによって相手をもっと豊かにしたいから、わたしたちは結婚する。
自分のなかの最高にして最善のものを正直に表現することをお互いに制約したり、コントロールしたり、妨げたり、お互いを束縛するために結婚するのではない。
義務を生み出すためにではなく、機会を提供するために、成長する機会、お互いの魂を結びあわせることを通じて神との究極の一体化を実現する機会を与えあうために、わたしたちは結婚する。
わたしたちは対等なパートナーとして愛する人と人生を旅し、すべてのパートナーシップにつきものの権威と責任を平等に分かちあい、平等に負担を引き受け、平等に栄光に浴する。
わたしたちは、赤いバラを交換する。結婚という物質的なしくみのなかで、生身の人間としてどう暮らしていくかを知って同意するしるしに。
わたしたちは、白いバラを交換する。二人の上にいつまでも輝く神の愛の純粋さのしるしに。
わたしたちは指輪を交換する。はじまりも終わりもない、太陽と地球と宇宙のシンボルである丸い輪を、支配でなく合体、制約でなく協力、束縛でなく手を繋ぎあうシンボルとして。
この結婚の秘跡(ひせき)を執り行えるのは当人たちだけであり、それを神聖なものとできるのも当人たちだけである。わたしたちはすでに心に刻まれた真実をここに表明し、集まった友人と精霊の前で証言する。
アーメン。
わたしたちも守りつづけていきたいと願っています! だって、ここに記せば、これからは守らなければならなくなりますから。
「もちろん、何も要求されない誓いなら誰だって守れるさ!」と言うひとたちがいるだろうな。そういうひとには、何と言うかね?こう言いますよ。「誰かを支配するよりも自由にさせるほうが、ずっとむずかしい。誰かをコントロールしていれば、自分の望みどおりになる。だが、誰かを自由にさせておけば、そのひとの望みどおりになるんだから」
なかなか、うまいことを言う。します。そして、あなたもわたしをパートナーとして、創造の協力者にしてくださいますか?
するよ。いつも、そうしてきた。いまも、そして永遠に、わたしたちは「ひとつ」だ。