結婚について

以下の文章は、なぜ結婚がうまくいかないのか?
というかたに、読むことをお勧めします。

ニール・ドナルド・ウォルシュ著 「神との対話」から一部引用

「神との対話3」12章から一部抜粋

いやいや、わたしが言うのは、ふつうはひとりのためにとっておく親密で個人的な愛のことなんです。少なくとも、一度にひとりだけに感じる愛ですよ!

どうして、愛を「とっておく」のかな?どうして、「しまって」おきたがる?

だって、「そんなふうに」複数の人を愛するなんて、正しくないですよ。裏切りじゃないですか。

誰がそんなことを言った?

誰でも言いますよ。みんなが言ってます。両親も言いました。宗教もそう教えている。世間だってそう言います。誰でもみんな、そう言います!

それは「父の罪」が息子に伝えられると言うたぐいだな。
あなた自身が経験から学んだことがあるはずだ。すべてのひとを心から愛すること。それは最高に楽しいことだ、とね。ところが、あなたの両親、教師、聖職者たちはべつのことを言う。「そんなふうに」愛するのは一時にひとりしかいない、と。それはセックスのことに限らないよ。
どんな意味にせよ、あるひとを他にくらべてとくべつだと感じたとき、あなたがたは、他のひとたちを裏切ったように感じる。

そうなんです!そのとおりなんですよ!わたしたちはそういうふうにできてるんです!

それは真の愛を表現しているのではない。それとは逆のものだよ。

人間の経験という枠組みのなかで、真の愛はどこまで表現を許されるんでしょうか? その表現にはどんな制約をもうけるべきなんですか(もうけなければいけない、と言うひとがいますね)? つきあいやセックスのエネルギーが制約なしに放出されたら、どんなことになりますか? つきあいやセックスの完全な自由は、すべての責任の放棄になるんでしょうか?

愛の自然な表現を妨げようとするのは、自由の否定だよ。したがって、魂そのものの否定だ。魂は人格化した自由だから。神はその定義からして自由だ。神に制限はなく、いかなる種類の制約もない。魂はミニチュア化した神だよ。したがって、魂は押しつけられるあらゆる制約に抵抗するし、外部からの束縛を受け入れるたびに新たな死を経験する。
その意味では、誕生そのものが死であり、死は誕生だ。誕生するとき、魂は身体という恐ろしい制約のなかに押しこまれているのに気づく。死はこの制約からの解放だ。眠りでも同じ解放が起きる。魂は自由のもとへ飛び帰り、ふたたび本来の表現や体験を楽しむ。
では、身体とともにあっても、その本来の表現や体験はできるのだろうか?
あなたが聞いたのはそれだよ。それを考えると、生命そのものの存在理由と目的に行き着く。生命にとって身体が監獄あるいは制約にすぎないのなら、身体とともにあって何のいいことがあるか? 身体の機能とは何なのか? それどころか、身体とともにいるのは正当なことなのか?

そうですね。だから、聞きたいんだと思います。それに、あらゆるところで、人間としての体験につらい制約を感じているひとたちみんなを代表して、おたずねしたい。制約といっても、物理的な制約だけじゃなく・・・・・。

わかっているよ。

・・・・感情的、心理的な制約でもあるんです。

そう、わかっている。わかっているよ。だが、あなたの言うことはすべて、もっと大きな質問に関連がある。

そうですね。だが、終わりまで言わせてください。小さいときから、誰でも思いどおりに愛したいのに、愛させてもらえないことに、すごくいらだっていたんです。
小さいときは、知らないひとと話しちゃいけない、場違いなことを言ってはいけないと言われました。いまでも覚えていますが、あるとき、父と通りを歩いていたら、小銭を恵んでくれという貧しい人に出会ったんです。すぐに気の毒に思って、ポケットに入れていた小銭をあげようとしました。
そうしたら父が止めて、にべもなく言いました。「ゴミだ、あんなのはただのゴミだ」って。父には父の価値基準があって、それに達していないと思う人間はみんなゴミだとレッテルを貼ったんです。
その後、兄の事件がありました。兄はもう家を出て独立していたんですが、父と口論したためにクリスマス・イヴに家に入れてもらえなかった。わたしは兄が好きだったし、イヴには家族一緒に過ごしたかったのに、父は玄関で立ちはだかり、兄を入れませんでした。母は悲嘆にくれていましたよ(兄は、前の夫との間に生まれた子供だったんです)。
わたしは不思議でならなかった。たかが口論で、クリスマス・イヴに兄を愛することも、一緒にいることも拒絶するなんてことがあるんだろうか? どんなひどいいさかいがあったとしても、クリスマスを台なしにするほどのことだろうか。交戦国でさえ、二四時間の休戦をするというのに。7歳のわたしは不思議でたまらなかったんですよ。
おとなになってから、怒りだけでなく、不安も愛の流れを妨げるのを知りました。
だからおとなも、知らないひとと話してはいけない子供と同じです。見知らぬ人に心を開いて親しくつきあっちゃいけないし、はじめて紹介された相手には、守るべきエチケットがある。どれも、わたしには納得がいきませんが。わたしは出会ったひとのすべてが知りたいし、自分のすべてを知ってもらいたい! でも、ノー、それはいけない。待て、時間をかけろ。それがルールなんです。
大人になってセクシュアリティの問題が登場してくると、ルールはさらに厳しく、制約的になりました。わたしには、それも納得がいかないんです。
わたしはただ愛し、愛されたい。自然だと感じる方法ですべてのひとを愛したい、気持ちのいい方法で愛したい。ところが、社会にはいろいろと厳しいルールと規制があります。規制が厳しいから、たとえ相手が同意していても、社会が同意しなければ、恋人たちは「間違っている」と言われるし、結局そうなるように運命づけられている。いったい、これは何なんですか?

それは、あなた自身が言っているじゃないか。不安だよ。すべては、不安に根ざしている。

そうですね。だが、その不安は正当ですよね? わたしたち人間のふるまいを考えれば、そういう制約や束縛は適切なのではありませんか? たとえば、男が若い女性と出会い、恋に落ちる(あるいは「肉欲」を感じる)。そして、妻を捨てる。三九歳の妻は子供をかかえ、身につけた技術もないから就職もできない。あるいは、もっとひどいことに、年老いた六四歳の妻が、自分の娘よりも若い女性に血道をあげた六八歳の男に捨てられる。

あなたが例にあげた男は、六四歳の妻をもう愛していないと思うか?

行動を見れば、そういうことになりますね。

いや、そうじゃないよ。彼は妻を愛していないから、逃げ出したくなったのじゃない。自分に押しつけられたと感じる制約から逃げようとしているんだよ。

そんなばかな。だって、単純な肉欲にすぎないじゃないですか。じいさんが若い女と暮らして、若さをとり戻したがっているだけです。子供っぽい欲望を抑えられず、つらい厳しい人生をともに歩んできたパートナーへの約束を守れなくなっただけじゃないですか。

もちろん、あなたの言う通りだよ。そうだからって、わたしがさっき言ったこととは何の関係もないがね。どんな場合でも、そういう男は妻を愛さなくなったんじゃない。妻が彼に押しつける制約、あるいは妻と別れないのならつきあわないという若い女性が課す制約、それが男の反抗を生むのだ。わたしが言おうとしているのは、魂はつねに制約に反抗するということだ。あらゆる種類の制約に抵抗する。人類史上のあらゆる革命の火花はそれだよ。妻に対する男の反乱だけじゃない。突然、夫を捨てる妻の抵抗だけじゃない(これも、よくあることだ)。

まさか、人間のふるまいからあらゆる制約をとりはらってしまえ、とおっしゃるんじゃないですよね! それじゃ、道徳的無政府主義になってしまいます。社会は大混乱になる。あなたは「情事」をするひとたちを弁護なさるわけじゃないですよね。いわゆる「開かれた結婚」という、あれですが!

わたしは弁護もしないし、非難もしない。何についても「賛成」したり「反対」したりはしない。わたしはただ、事実を観察している。あなたがたが善悪のシステムをつくり出し、賛成したり反対したりするのを眺めているだけだ。人類として、個人として、自分はこれこれのことを選び、望むというなら、いまの考え方がその目的に役立つかどうかを見ているだけだ。
さて、わたしは「開かれた結婚」に賛成でも反対でもない。あなたが賛成するか反対するかは、結婚に、あるいは結婚から、何を望んでいるかによって決まるだろう。何を望むか、それが「結婚」という経験の場で、ほんとうのあなたを創り出す。行為とはすべて自分を決めることだから。
どんな決定をするにしても、正しい疑問と取り組んでいるかどうか確かめることが大事だ。たとえば、「開かれた結婚」についての疑問は、「配偶者双方にべつの人間との性的接触を認める開かれた結婚をするか」ということではない。そうではなくて、「結婚という経験にてらして、わたしとは何者か、わたしたちとは何者か」ということだ。
この疑問に対する答えは、人生最大の問いに対する答えのなかにある。すべてのこと、すべての経験で、自分とは何者か。それだけだ。わたしは何者か、どんな人間になることを選択するか?
この対話でくり返し言ってきたように、それがすべての問いへの答えだ。

やれやれ(God)、ますますイライラしてきたな。だって、その答えはあんまり漠然としていて一般的で、ぜんぜん、ほかの問いへの答えになりません。

ほう、そうかな? それでは、その答えとは何なのだね?

あなたがこの対話でおっしゃっていると思われることを基準にすれば、わたしは「愛」です。それが、ほんとうのわたしです。

すばらしい! わかったじゃないか! そのとおりだよ。あなたは愛だ。存在するのは愛、それだけだ。だからあなたは愛であり、わたしは愛であり、愛でないものは何もない。

それじゃ、不安はどうなんですか?

不安は、ほんとうのあなたではない。不安はほんとうのように見えるが、偽りの証(あかし)だ。不安は愛の対極で、ほんとうの自分を経験的に知るために現実のなかで創り出したものだ。あなたがたの相対的な世界での真実とは、こういうことだ。自分でないものが存在しなければ、あなたも 存在しない。

そう、そうですね。何度もうかがいました。だが、わたしはどうもはぐらかされているような気がするんですよ。自分とは何者か、という問いへの答え(それは愛である)は、あんまり漠然としていて一般的で、他の問いへの答えにはならない。わたしは、そう言ったんです。あなたはそれがすべての問いへの答えだとおっしゃるが、「開かれた結婚をするべきか?」という具体的な問いへの答えはもちろん、どんな問いへの答えにもなっていないとわたしは思うんですよ。

本当にそう思うのなら、あなたには愛がわかっていないのだよ。

みんな、そうなんじゃありませんか? 人間は、時のはじまりから、そのことをわかろうとしてきたんです。

そんなものはない。

ああ、時のはじまりなんてものはないんですね。いいですよ、わかってます。ただの言葉のあやですよ。

では、あなたの言う、「言葉のあや」を使って、愛とは何かを説明できるかどうか、やってみよう。

ぜひお願いします。

最初に浮かぶ言葉は、無制限ということだな。愛とは無制限だ。

それじゃ、振り出しに戻ってしまいますよ。同じ輪の上の堂々めぐりです。

輪というものはいいものだよ。悪くいうものではない。めぐりつづけなさい。問題のまわりをめぐりつづけなさい。めぐるのはいいことだ。くり返しもいい。再訪も、言葉のくり返しもけっこう。

ときどき、イライラしてくるんだがなあ。

ときどき? それはおかしなことを聞くね。

わかりました、わかりましたよ。先を続けてください。

愛とは、無制限なものだ。はじまりもなければ終わりもない。以前も以後もない。だから、愛はつねにある。つねに現実だ。
さて、さっき使った言葉に戻ろうか。自由だ。愛が無制限で、そしてつねにあるなら、愛は・・・・自由だ。愛は完璧な自由なのだよ。
ひとはつねに愛し、愛されたいと願っている。そうだろう。つねに、愛が無制限であってほしいと願っている。そして、それを自由に表現したいと願っている。あなたがたは愛の経験のすべてで、自由と無制限と永遠を求める。いつも実現するとは限らないが、求めてはいる。愛とはそういうもので、ひとは心の奥底ではそれを知っているから求める。なぜ知っているか。あなたがたは愛であり、愛の表現を通して、ほんとうの自分を知り、経験するからだよ。
あなたがたは、生を表現する生であり、愛を表現する愛であり、神を表現する神だ。
だから、これはみんな同義語だよ。同じものだと考えればいい。
神 生命 愛 無制限 永遠 自由
このどれにもあたらないものは、ほかのどれでもない。
これがあなたがただ。「遅かれ早かれ」そういうものとして自分を経験したいと願うようになる。

「遅かれ早かれ」とは、どういうことですか?

いつ、不安を克服するかによる、ということだよ。さっきも言ったとおり、不安はほんとうのように見えるが、偽りの証だ。ほんとうのあなたがたではない。
あなたがたは自分ではないものの経験を終わったとき、ほんとうの自分を経験しようとする。

不安を経験したいなんて、誰が思うんでしょう?

誰も思いはしない。教えられたのだ。
子供は不安を経験しない。坊やは何でもできると思っている。また、自由の欠如も経験しない。幼い女の子は誰でも愛せると思っている。子供たちは、自分が永久に生きていると思っている。子供のようにふるまうひとは、自分を傷つけるものは何もないと思っているよ。
また、子供たちは、神々しくないものは何も知らない。ただし、おとなに神々しくないものを教えられるまでは。だから、子供たちは裸で走りまわり、誰にでも抱きつき、それを大変なことだと思わない。おとなに同じことができたら、どうだろうね。

でも、子供たちは美しい無邪気さからそうするんです。おとなは、そんな無邪気さをとり戻すことはできません。おとなが「裸」になったら、つねにセックスみたいなことがつきまといますから。

そうだね。そして、もちろん、神は「セックスみたいなこと」が無邪気に自由に表現されるのを禁じているわけだ。

そう、神は禁じたんです。アダムとイヴは裸でエデンの園を走りまわって幸せだった。ただし、イブが木の実を、善悪を知る智恵の木の実を食べるまではね。そのとき、あなたは、わたしたちにいまの状況を宣告なさった。わたしたちすべてが原罪を負ったのです。

そんなことはしないよ。

わかっています。でも、ここで既存の組織的宗教に一矢(いっし)むくいておかなくちゃ。

できるなら、そんなことはしないほうがいいな。

わかりました。そうですね。組織的宗教にはほとんどユーモアのセンスがないからなあ。

そらそら。

すみません。

わたしが言ったのは・・・・人間という種は、無制限で永遠で自由な愛を経験したいと切望するということだ。結婚という制度は、永遠を創造しようとする試みだった。結婚によって、生涯のパートナーになることを約束しあおうとした。だが、「無制限」で「自由」な愛の創出にはあまり役立たなかったね。

どうしてでしょう?結婚が自由に選ばれたものなら、自由の表現なのではありませんか?配偶者以外にはセクシュアルな愛を示したりしないというのは、制約ではなくて選択でしょう。選択は制約じゃなくて、自由の行使ですよね。

それが選択であるあいだは、そうだね。

でも、そのはずですよ。約束なんだから。

そう・・・・そこがトラブルのもとだ。

説明してください。

いいかね、関係性のなかで、もっと高次のとくべつさを経験したいと思うときが来るかもしれない。自分にとって誰かがとくべつだというのではなくて、すべてのひとへの(それに生命そのものへの)愛の深さを示す方法は相手によってちがう。それぞれ独特なものだということだ。
じつは、いまでもひとへの愛を示す方法は、それぞれ独特なのだ。まったく同じ方法で二人に愛を示すことはできない。ひとはそれぞれが独特の被造物であり、創造者で、創造するものはすべて独特だからだ。思考でも言葉でも行為でも、同じものはない。ひとも同じにはなれない。独特な存在でしかありえない。
なぜ、同じ雪の結晶が二つないのか?それは、不可能だからだ。「創造」は「コピー」ではないし、創造者は創造することしかできないからだ。
だから、二つとして同じ雪の結晶はないし、同じ人間はいないし、同じ考えはないし、同じ関係もないし、同じものが二つ存在することは絶対にない。
宇宙は  そしてそのなかのすべては  単数でしか存在しないし、同じものは他にはないのだ。

それも、神聖な二分法ですね。すべては独特であり、すべてはひとつである。

そのとおり。手の指はみなちがっているが、しかし同じ手だ。
人間も同じだよ。すべての人間はひとつだが、二人として同じ人間はいない。したがって、どんなに努力をしてみても、二人の人間の愛が同じであるはずがない。それに、そんなことを望むはずもないのだ。なぜなら、愛とは独特なものへの独特な対応なのだから。
そこで、ひとりへの愛を示すときは、他のひととの関係ではありえない方法で示しているはずだ。あなたの思考、言葉、行為  あなたの対応  は、コピーにはなれない。たったひとつのものだ。あなたが想う相手もそうだ。
このとくべつな愛をひとりだけに示したいと思う日が来たら、そのときは、さっき言ったようにそれを選びなさい。それを表明し、宣言しなさい。だが、その宣言を義務ではなく、その瞬間の自由の表明にすること。なぜなら、真の愛はつねに自由で、愛の場に義務は存在しえないからだ。
ひとりだけを独特なかたちで愛するという決断を、決して破ってはならない神聖な約束と考えるなら、その約束が義務になる日が必ずやってくるし、あなたはそれを恨むだろう。だが、その決断をたった一度の約束ではなく、何度でもやり直す自由な選択だと考えれば、それを恨む日は来ないだろう。
このことを覚えておきなさい。神聖な約束はただひとつしかない。それは、ほんとうの自分を語り、生きることだ。他の約束は自由の喪失で、決して神聖なものではない。
ほんとうのあなたは自由だから。自由を失えば、自分自身を失う。それは神聖どころか、冒涜(ぼうとく)だ。

ふう!なかなか厳しいお言葉ですね。誰にも何の約束もしてはいけないですか?

いまのほとんどの人生では、すべての約束に偽りが組みこまれている。将来、自分がどんなふうに感じるか、どうしたいと思うか、それがいまわかると考えるのが偽りなのだよ。ものごとに反応して生きていたら、そんなことがわかるはずはない。創造者として生きてはじめて、偽りのない約束ができる。
創造者は、将来、どう感じるかを知っている。創造者なら感情を経験するのではなくて、創り出すからだ。未来を創造できるようになるまでは、未来は予測できない。未来を予測できるまでは、ほんとうの約束をすることはできない。しかし、未来を創造し、予測する者でも、変化する権利と権限はある。変化はすべての被造物の基本的権利だ。実際には「権利」以上のものだ。「権利」とは与えられるものだから。ただ「変化」する、それだけだ。
変化するもの、それがあなただ。変化は与えられるものではない。あなたが変化するのだ。
さて、あなたがたは「変化」するから  変わらないのは「変化する」ということだけだから  つねに同じであるという約束は決してできない。

宇宙には変わらないものはないとおっしゃるんですか? 創造のなかでは、つねに変わらずにいるものは何もない、そうおっしゃるんですか?

あなたがたが生命と呼んでいるプロセスは、再創造(re-creation)のプロセスだ。生命はすべて、瞬間、瞬間に自らを再創造しつづけている。このプロセスでは、同一は不可能だ。何かが、同一だったら、変化しないということだから。だが、同一は不可能でも、類似は不可能ではない。類似というのは、以前と驚くほど似たヴァージョンを創り出すという変化の結果だから。創造が高いレベルの類似に達したとき、あなたがたはそれを同一と呼ぶ。あなたがたの限られた視点から大ざっぱに見れば、同一なのだ。したがって、人間の目には、宇宙は偉大な不変性を保っているように見える。つまり、同じように見え、同じように行動し、同じように反応している。あなたがたは、それを不変だと思う。しかし、いいかな。物質的、非物質的なすべての生命の視点で見れば、見かけの不変性は消える。真実を経験する。つまり、つねに変化しているということだ。

すると、ときには変化が非常に微妙でわずかなために、あまり敏感でないわたしたちには同じように見える、ときにはまったく同じに見えるけれど、じつはそうではないとおっしゃるのですか?

そのとおり。

では、「瓜二つのふたごなどいない」ってことですね。

そうだ。よく、わかっているではないか。

でも、わたしたちには不変に見えるほどそっくりなかたちで、自分自身を再創造する(re-create)ことができるんですね。

そう。

人間関係も同じ。わたしたちは何者で、どうふるまうか、ということでも同じなんですね。

そう。ただし、たいていのひとは非常にむずかしいと思うだろう。
というのも、前にも言ったとおり(見かけだけではなく)真の不変性は自然の法則に反するからだ。見かけの同一性を創り出すのでさえ、偉大な<マスター>でなければできない。
<マスター>は自然の傾向性をすべて克服し(自然は変化する傾向があるんだよ、覚えているかな)、同一性を示す。だが、じつは毎瞬毎瞬、同一なわけではない。ところが<マスター>は同一に見えるほど似た自分を創造してみせることができるのだ。

でも、<マスター>でないひとたちだって、いつも「同じ」に見えますよ。行動も見てくれもあんまり予測可能なんで、命を賭けてもだいじょうぶだってひとたちを知っています。

しかし、それを意図的にするとなると、途方もない努力が必要だよ。
<マスター>は、非常に高いレベルの類似性(あなたがたが言う「不変性」)を意図的に創り出すことができる。ところが弟子とは、必ずしも、意図せずに不変性を創り出すひとたちだ。そういうひとは、ある状況ではいつも同じ反応をする。たとえば、必ず「自分にはどうしようもない」と口にする。だが、<マスター>は決してそんなことは言わない。
同じ反応をするひとは、結果として望ましいふるまい(ひとからほめられるような行動)になっても、「べつに、たいしたことじゃない。じつは、考えずに動いただけだ。誰でもそうするよ」と言うだろう。だが、<マスター>は決してそんなことはしない。
つまり、<マスター>とは自分が何をしているかを文字どおり、知っているひとだ。<マスター>は、自分がなぜそうするのか知っている。ところが、<マスター>のレベルに達していないひとは、それも知らない。

だから、約束を守るのがむずかしいんですか?

それも、理由のひとつだ。前に言ったとおり、未来を予測できるようになるまでは、約束などできないのだよ。約束を守るのがむずかしい二つめの理由は、誠実さとぶつかるからだ。

と、おっしゃいますと?

ほんとうの自分はいつもこうだと言っても、その後に変わる。だから、深い葛藤が生じる。どちらに従うべきか。ほんとうの自分か、約束した自分か?

どうすればいいのか、アドバイスをお願いします。

他人を裏切らないために自分を裏切ること、それも裏切りだ。それは最高の裏切りだ。

でも、それでは、そこらじゅうで約束が破られてしまいますよ! 誰のどんな言葉も意味をもたなくなってしまう。誰も信用できなくなってしまうじゃありませんか!

ほう、あなたはひとが約束を守ると信用していたのか? みじめだったのも無理はないな。

どうしてみじめだったとおっしゃるんです?

いまの自分、いまの行動が幸せだった結果だと思うかい?

いいです、わかりましたよ。たしかにみじめだったときもあります。

大部分はみじめだったろう。どこから見ても幸せなはずのときですら、あなたは自分をみじめにした。ほんとうに幸せでいられるのかと心配したからだ! そんな心配をせずにいられなかったのは、あなたの「幸せ」が、ひとが約束を守ってくれるかどうかで決まったからだ。

すると、約束を守ってくれると期待する(少なくとも願う)権利もないとおっしゃるんですか?

どうして、そんな権利が欲しい?
ひとがあなたとの約束を破るたったひとつの理由は、もう約束を守りたくないからだよ。あるいは、もう守れないと感じるからだ。同じことだが。ひとがあなたとの約束を守りたくない、あるいは守れないと思っているのに、どうして守らせたいと思うのだね?
ほんとうに、相手が守りたくない約束を守らせたいかな? 本人がしたくないことを強制するべきだと、ほんとうに思うか? どうして、本人の意思に反することを強制したがる?

ええと、こういうことじゃないですか? 誰かが約束を守らなければわたしが傷つく、あるいはわたしの家族が傷つく。それを放っておくことになるからです。

すると、傷つくのを恐れて、ひとを傷つけるわけだ。

約束を守ってもらうのが、傷つけることになるとは思いませんが。

しかし、向こうは傷ついたと思うだろうね。そうでなければ、約束を守っていたはずだ。

すると、相手が約束を守って傷つくのを避けるために、自分の子供や家族が傷つくのを見ているべきなんですか?

ひとに無理やり約束を守らせて、それで自分たちは傷つかずにすむと思うか?
いいかね。自由に好きなように行動しているひとよりも、静かな絶望の人生を送っているひと(つまり、「しなければならない」ことをしているひと)のほうが、ずっと大きな被害を与えてきたのだよ。
自由を与えれば、危険はなくなる。危険が増大することはない。
たしかに、相手を約束やコミットメントの「くびきから解放」してやれば、その当座は自分が傷つくと感じるだろうが、長い目で見れば決して被害を受けてはいない。相手に自由を与えれば、自分も自由になるのだから。自分も苦しみや悲しみから解放され、尊厳や自尊心を傷つけずにすむ。ひとに無理やり約束を守らせれば、必ず自分の尊厳や自尊心が傷つく。
長期的な被害のほうが、当面の被害よりもはるかに大きい。ひとに約束を守らせようとしたことがある者には、きっとわかるはずだが。

ビジネスの世界でも同じですか? ビジネスの世界で、そんなやり方が通るものでしょうか?

それどころか、正気でビジネスをしようと思うなら、それが唯一の方法だ。
いまのあなたがたの社会の問題は、力を基盤としていることだ。法律的な力(「司法の力」とあなたがたは言う)や、物理的な力(「軍事力」だね)にしじゅう訴える。あなたがたはまだ、説得の術(すべ)を使いこなすことを覚えていない。

法律的な力、つまり裁判所を通じた「司法の力」を使わないとしたら、どうやって企業を「説得」して、契約や合意を守らせるんですか?

あなたがたのいまの文明の倫理では、ほかに方法はないかもしれない。だが、文明の倫理が変化すれば、いま企業に(個人に)合意事項を履行させている方法は、非常に原始的に見えてくるだろう。

もっと説明してくださいますか?

いまは、あなたがたは力で合意事項を履行させている。だが、文化的倫理が変化して、すべては「ひとつ」であるという理解が行きわたれば、決して力は使わないだろう。それでは、自分に被害を与えることになるからだ。右手で左手をたたくようなことはすまい。

左手が自分の首を絞めていても、ですか?

そんなことも起こらなくなる。自分の顔が憎くて鼻にかみつくようなまねはしなくなるよ。合意を踏みにじったりもしなくなる。合意そのものが、いまとはずいぶん違ったものになるだろう。
いまは相手が価値のあるものを寄こすときだけ、自分も価値あるものを与えると合意する。しかし、そんなことはなくなるだろう。
与えるのも分け合うのも自然になるから、契約を破るとか破らないというより、契約そのものがずっと少なくなる。契約とはモノやサービスの交換についての取り決めだが、交換があろうがなかろうが、モノやサービスを与えるようになる。そうなれば、一方的に与えることが救いになる。そのとき、神が経験したことに気づくからだ。つまり、ひとに与えるのは自分に与えることだ。行ったものは戻ってくる、と。

自分から出ていったものはすべて、自分に戻ってくるんですね。

七倍になって。だから、何を「とり戻せる」か、心配しなくていい。何を「与える」かだけを考えでいればいい。生きるとは、最上のものを得ることではなく、最上のものを与えることだ。
あなたがたは、忘れている(forgetting)が、人生は得る(for getting)ためにあるのではない。生命とは、与えるために(for giving)あるし、そのためには、ひとを赦す(forgiving)必要がある。とくに、期待したものをくれなかった相手を許さなければならない。
そうなると、あなたがたの文化の物語は一変するだろう。現在の文化でいう「成功」は、どのくらい自分が「得た」かで測られている。どのくらいの名誉や金や力や所有物を蓄積したかで測られているのだ。新しい文化では、「成功」はどのくらいのひとに「蓄積」させたかで測られる。
皮肉なことに、ひとに蓄積させればさせるほど、あなたも苦労なく蓄積することになる。「契約」も「合意」も「取引」も「交渉」も、与えるという「約束」の履行を強制しあう訴訟も法廷もなくなる。未来の経済では、個人的な利益めあてではなく、個人的な成長を目的にものごとを行うようになる。それが自分の利益だからだ。自分が大きく立派になれば、物質的な「利益」はあとから自然についてくる。そうなれば、与えると「言った」のだから与えろと強制するのは、非常に原始的なやり方に見えてくるだろう。相手が合意を履行しなかったら、好きなように選択させるだろう。相手が与えなくても、あなたが失うわけではない。「それが来たところにはもっとたくさん」あることを知っているし、その源というのはあなたがもっている何かではなく、あなた自身だからだ。

なるほど、わかりました。だが、どうも脱線したような感じなんですが。そもそも、わたしが愛についておたずねしたのが発端でした。人間はいつか、制約なしに愛を表現できるようになるのかと。
それから、「開かれた結婚」に話題が進展したんです。それが急に、脱線してしまいましたよ。

そうでもない。いま話したことはみんな関係がある。それに、「進んだ」、つまり高度に進化した社会に関する話の手はじめとしてもぴったりだ。高度に進化した社会では、「結婚」も「ビジネス」もない。いまのあなたがたの社会をまとめておくために創り出された人工的な社会機構は何もなくなる。

そうですね、そのこともすぐにお聞きしたいと思います。それでも、いまはこの問題に決着をつけたいんですが。あなたは、とても興味深いことをおっしゃった。要するに、ほとんどの人間は約束を守れないし、だから守るべきでもない、そういうふうに解釈したんです。そうすると、結婚という制度(institution)に大きな風穴があきますよ。

「施設(institution)」と言ったね。その言葉は気に入ったな。結婚しているひとのほとんどは、施設に入っているような気分でいるだろう。

そう、精神障害者用の施設か矯正施設か、というところですね。少なくとも、上級学習施設かな。

まったく、そのとおり。ほとんどのひとは、そういう経験をしている。

いやあ、冗談なんですけどね。だいたい「ほとんどのひと」ということはないでしょう。いまだって、何百万人もの人びとが、結婚という制度を愛し、守ろうとしていますよ。

それには異議があるね。ほとんどのひとは結婚で苦労しているし、その経験を好ましいとも思っていないよ。世界中の離婚統計がそれを物語っている。

すると、結婚制度は廃止すべきだとおっしゃるんですか?

わたしはどうすべきだとか、すべきでないとかは言わない。ただ・・・・。

わかっています、わかっていますよ。観察しているだけ。

ブラボー! あなたがたはいつも、どちらかに軍配をあげる神を求めるが、わたしはそうではない。
そういう神を求めるのをやめてくれて、ありがたいな。

いやあ、結婚制度に風穴をあけただけじゃなくて、宗教にも風穴があいてしまいましたね!

神は軍配をあげないことを人類すべてが理解すれば、宗教が存在できなくなるのは事実だね。宗教の目的とは、神がどちらに軍配をあげるかを言明することだから。

あなたがどちらにも軍配をあげないのなら、宗教は偽りにちがいない。

それは厳しい言葉だな。わたしなら、フィクションと呼びたいね。あなたがたがでっちあげたものにすぎない。わたしは結婚制度を望んでいない。だが、あなたがたは望んでいるらしいな。

なぜでしょう? むずかしいとわかっていて、わたしたちはなぜ結婚を望むのでしょうか?

それは、愛に「永続的」あるいは永遠をもたらしてくれる方法として、唯一考えついたのが結婚だからだ。女性にはサポートや生存が保証される唯一の方法で、男性にはつねにセックスとつれあいを保証してくれる唯一の方法だからだよ。
だから、社会的なしきたりが創られた。取引が成立した。あなたがこれをくれれば、わたしはこれをあげる。まるでビジネスだね。契約を交わすには履行を強制する力が必要だから、神との「神聖な盟約」だということにした。破ったら、神に罰を受ける。その後、それではうまくいかなくなったので、人間がつくった法で強制することにした。ところが、それさえもうまくいかなくなった。

どうして、そんなことになるんでしょう?

そういう誓いはふつう、唯一重要な法に矛盾するからだ。自然の法則に反するのだよ。

しかし、「ひとつである」こと、それを表現するのが、生命あるものの自然でしょう。わたしはそう理解したんですが?結婚とは最も美しい表現ではありませんか。「神が結びたもうたものは、人間が離すことはできない」というじゃありませんか。

大半の結婚は、とくに美しくもないね。それは、人間の自然な真実の三つの側面に反するよ。

もう一度、説明していただけますか? ようやく、わかりかけてきたようです。

よろしい。もう一度、順番にくり返そう。
あなたがたは愛である。愛は無制限で永遠で自由である。したがって、あなたがたもそうだ。それが、あなたがたの本来の性質だ。あなたがたはもともと、無制限で永遠で自由なのだ。
さて、あなたがたの本来の性質を踏みにじる、あるいは押さえつける人工的な、社会的、倫理的、宗教的、哲学的、経済的、政治的な機構はすべて、あなたがたの真の自己を侵害する。だから、あなたがたは強い不満をいだく。たとえば、アメリカという国はどのようにして生まれたか。「自由を、しからずんば死を与えよ」ではなかったか? ところが、国民はその自由を放棄し、あなたがたは人生の自由を放棄した。どちらも同じ目的のため、安全保障のためだ。あなたがたは人生を   生命そのものを   恐れるあまり、自分の本来の性質を安全保障と引きかえに放棄したのだ。
結婚という制度は、安全を保証しようとする試みだ。政府と同じだね。じつは、両方の内容は同じなんだよ。お互いの行動を律しようとする人工的な社会制度だ。

やれやれ、そんなふうには考えたことがなかったな。結婚というのは、究極的な愛の宣言だと思ってましたよ。

たしかにそう想像したのだが、できあがったものはちがった。できあがったのは、究極的な不安の宣言だ。
結婚が無制限で永遠で自由な愛につながるなら、それは究極的な愛の宣言だ。だが、いまのあなたがたは、自分の愛を約束か保証のレベルにまで引き下げようとして結婚する。 結婚は「いまの状態」が永遠であることを保証しようとする努力だ。保証がいらなければ、結婚も必要ない。その保証をあなたがたは何に使うか? 第一に、安全を保障する手段として使う(自分自身のなかに安全を求めるかわりに)。第二に、その保証が永遠に続きそうもないと、相手を罰する手段として使う。いまでは、結婚の約束が破られると裁判が起こされるね。こうして、あなたがたは結婚がとても役に立つものであることを発見した。ただし、まったく間違った理由で。
結婚はまた、お互いへいだくような感情を決して他人にはもたないと保証しようとする試みでもある。
少なくとも、同じ方法で表現しないと保証する試みだね。

つまり、セクシュアルに。

つまり、セクシュアルに。最後に、いまのあなたがたの結婚は、「この関係はとくべつだ。わたしはこの関係をほかのすべての上に置く」と言明することだ。

それのどこがいけないんですか?

べつに。これは正邪の問題ではないよ。あなたがたにとって役立つかどうか、それが問題だ。ほんとうの自分が、「この関係、いまここにあるただ一つの関係が、ほかのすべてにくらべてとくべつだ」と言うのなら、結婚というしくみは完全にその目的にかなっている。だが、おもしろいことに、霊的な<マスター>と認められているひとたちは、ほとんど結婚していないはずだよ。

ええ、<マスター>というものは独身だからですね。セックスはしないんだ。

そうじゃない。<マスター>はいまの結婚というしくみに、誠実に真摯(しんし)に従うことはできないからだ。つまり、ひとりの人間がほかの誰よりもとくべつだとは言えないからだよ。<マスター>はそんなことは言わない。神もそんなことは言わない。
いまのあなたがたの制度では、結婚の誓いで、非常に神らしからぬ宣言をしている。なのに、神聖な約束のなかでもとくに神聖だと感じられているのは皮肉だね。
あなたがたは、神が「選ばれた民」に「約束」をした、神と神に愛された人びとの盟約はとくべつだ、と言う。だが、神なら、決してそんな約束はしない。
あなたがたは、神が誰かをとくに愛することはないという考えに耐えられない。だから、神が特定の理由で特定の人びとだけを愛するというフィクションを創り出した。そのフィクションを、あなたがたは宗教と呼ぶ。わたしならそれを冒涜と呼ぶね。神が誰かをとくに愛すると考えるのは、そして、それを表す儀式は、聖典ではなくて神聖冒涜だ。

驚いたな(my God)。待ってください、待ってくださいよ!
お話を聞いていると、結婚についてもっていた良いイメージがすべてつぶされてしまう! これが神の言葉であるはずがない。神が宗教や結婚について、こんなことを言うはずがありませんよ!

ここではなしているのは、あなたがたが創り上げた宗教と結婚だよ。厳しすぎると思うかな? いいかね、あなたがたは自分の不安を正当化し、お互いへの狂気のような態度を合理化するために、神の言葉をねじ曲げてきた。あなたがたは、神の名においてお互いを制約し、傷つけ、殺しあう。それに必要なことを神に言わせようとする。
そう、あなたがたは何世紀もわたしの名を振りかざし、神の旗を掲げ、十字架を抱いて戦場に赴いてきた。すべて、わたしがある人びとを他より愛している、それを証明するために殺せと言うとあかしだてるためだった。だが、いいか。わたしの愛は無制限で、無条件なのだ。
それがあなたがたにはわからない。この真実を認められない。この言葉を受け入れなれない。そうなったら、すべてが包みこまれるから、(あなたがたが創りあげたような)結婚制度が破壊されるだけではなく、宗教も行政制度も、すべてが壊れてしまうからだ。
あなたがたは疎外をもとに文化を創り出した。だが、神の文化は包含をもとにしている。神の愛にはすべてが包みこまれる。神の王国にはすべてが招かれる。この真実を、あなたがたは冒涜と言う。
言わずにはいられないのだ。それが真実なら、人生で創りあげてきたものすべてが間違いになるからだ。

「正邪」がないのに、どうして何かが「間違い」だと言えるんですか?

間違いというのはただひとつ、目的にかなった機能をしないということだ。開閉しないドアは間違っているが、そのドアが「悪」だとは言わないだろう。ドアの取り付け方、動き方が間違っているというだけだ。目的に合っていない。あなたがたが人生で創りあげたもの、社会で創りあげたもので、人間としての目的にかなっていないものは間違っている。間違った仕組みだ。

すると・・・・わたしたちはどうなりますか? 宗教を破壊し、結婚を見捨て、政府を否定した。そうすると、どうなるんですか?

第一に、わたしは何も破壊し、見捨て、否定していない。あなたがたが創った機構が機能せず、望むものを生み出さない場合、その状態をありのままに説明するのは、その機構を破壊し、見捨て、否定することではない。批判と観察のちがいを思い出してごらん。

反論するつもりはないんですが、いままでおっしゃったことはかなり批判的に聞こえましたよ。

言葉の制約が大きくて、身動きがとれないのだよ。言葉が少なすぎるので、伝えようとするのが同じ意味でなくても、同じ考えでなくても、同じ言葉を何度もくり返し使わなければならない。
「バナナ・スプリットを愛している」と言っても、まさか、ひとがお互いに愛しあうというのと同じ意味で使っているのではない。それをみても、感情を表現するには、言葉が少なすぎるのがわかるだろう。こうして 言葉で コミュニケーションをしていると、わたしもこの制約を受ける。たしかに、あなたがたが批判するときと同じ言葉を使っているから、わたしも批判していると思われがちなのは認めるよ。
だが、もう一度断言するが、批判しているのではない。この対話全部をとおして、わたしはただ、あなたがたがめざすと言うところへ達するにはどうすればいいかを説明している。あなたがたの道をはばんでいるもの、目的地への到達を邪魔しているものを、できるだけはっきりと教えてあげようとしているのだよ。
宗教についていえば、あなたがたはほんとうに神を知り、愛せるようになりたいと言う。だが、あなたがたの宗教ではそこへ到達できない。と説明しているのだ。
あなたがたの宗教は神を偉大な謎にして、神を愛するのではなく、神を恐れさせている。宗教はあなたがたの行動を変えるのにほとんど役立っていない。あなたがたはいまも殺しあい、非難しあい、「間違っている」と相手を糾弾する。それをあなたがたの宗教は奨励している。だから、わたしの観察によれば、宗教はあなたがたがめざすところではなくべつの場所に連れていく。
あなたがたは結婚が、永遠の祝福をもたらしてくれることを望む。少なくともある程度のレベルの安らぎと安心と幸せをもたらしてほしいと思っている。宗教と同じで、あなたがたが考え出した結婚というしくみは、結婚したてのころはその目的をかなえてくれる。
しかし、これも宗教と同じで、経験が長くなると、行きたくないと思っている場所へ連れていかれてしまう。結婚したひとたちの約半数が離婚する。離婚しない者でも、絶望し、不幸でいるかもしれない。「結ばれる喜び」がやがて、あなたがたを苦渋と怒りと後悔に連れていく。
あなたは、政府に平和と自由と国内の安定を保障してもらいたいと言うが、あなたがたが考案した政府は、この目的を果たしていない。それどころか、政府はあなたがたを戦争に引きづりこむ。自由はますます制限され、国内では暴力と社会不安がひろがっている。人びとに十分な食糧を与えて健康に暮らさせるという基本的な問題さえ解決できていない。ましてや、平等な機会を提供するという課題は達成されていない。
毎日、あなたがたは貧しい国々を養えるほどの食糧を捨てているのに、同じ地球の上で何百人もが飢え死にしている。あなたがたは「もてる」者が残したモノを「もたざる」者に与えるという簡単なことすらできない。ましてや、資源をもっと平等に分け合うという問題など、解決できない。
これは批判ではないよ。あなたがたの社会の状態を観察しているだけだ。

なぜなんですか? なぜ、そんなことになっているんでしょう? この何年かで、どうしてもっと問題を解決できなかったんでしょう?

何年? 何世紀ではないか。

いいです、何世紀もです。

それは、人間の最初の文化的な神話と、その後に続いたさまざまな神話のせいだ。それが変わるまでは、何も変わらない。文化の神話はあなたがたの倫理を伝え、倫理は行動を生み出す。問題は文化的な神話が基本的な直感と矛盾していることだ。

と言いますと?

あなたがたの第一の文化的な神話は、人間が基本的に悪だと語る。原罪という神話だ。あなたがたの基本的な性質が悪だというだけでなく、そう生まれついているのだと言う。
第二の神話は、第一の神話から必然的に生まれてくる。「適者生存」という神話だ。この第二の神話は、強者と弱者がいて、生き残るには強者でなければならないという。仲間を助けるためにはできるだけのことをするが、しかし自分自身の生存が問題になったら、まず自分のことを考える。そのためには、ひとを死なせもする。それどころか、自分や自分の仲間が生き延びるために必要だと思えば、他者を  たぶん「弱者」を  殺害する。それでこそ、「適者」だと。
それが基本的な本能だという者もいる。それは「生存本能」と呼ばれる。この文化的神話があなたがたの社会の倫理の大半をつくり上げ、多くのグループの行動を創り出している。だが、あなたがたの「基本的な本能」は生存ではなく公平であり、ひとつになることであり、愛だ。それがすべての知覚ある存在の基本的な本能だ。細胞に記憶されている本来の性質だ。
だから、第一の文化的神話は崩壊する。あなたがたは基本的に悪ではない。「原罪」を負って生まれたのでもない。
「基本的な本能」が「生存」にあるなら、そして、基本的な性質が「悪」なら、転落しそうな子供や溺れかけたひとを本能的に助けたりはしないだろう。ところが本能のままに行動するときは、どうしようかとは考えない。たとえ、自分の身が危うくなっても助ける。
したがって、あなたがたの「基本的」な本能が「生存」でないことも明らかだ。本能も性質も、あなたがたが何者であるかを、つまり公平と、ひとつであることと、愛を反映している。
社会的な面で言えば、「公平」と「平等」との違いを理解することが重要だ。平等を求めることも、平等であろうとすることも、知的存在の基本的な本能ではない。それどころか逆だ。
同一性よりも独自性を表現する。それが生きとし生けるものの基本的な本能だ。真に平等な社会の創造は、不可能なばかりでなく、望ましくもない。真の平等を、言い換えれば経済的、政治的、社会的な「同一性」を実現しようとする社会のメカニズムは、最も偉大な考えと最高の目的にまったく反している。
最高の目的とは、新たな真の自分を再創造していく機会を得るということだ。必要なのは機会の平等で、現実の平等ではない。それが公平ということだ。外部の力や法でつくり出された現実の平等は、公平を損なう。
では、機会の自由は何によって創り出されるか。社会がすべてのひとに基本的な暮らしを保証し、誰もが 生存ではなく自分の成長と自己の創造を追求しつつ生きられる、そんなシステムだ。言い換えれば、生存を保証する真のシステム(生命と呼ばれる)を模倣したシステムだね。
悟りを開いた社会では自己の生存は問題ではないから、すべてにとって充分なほど豊かなのにひとりを苦しませるようなことはない。そういう社会では、自分の利益と互いの最善の利益は同じなのだ。
「本質的に悪」だという神話、あるいは「適者生存」という神話を中心に創られた社会では理解できないだろうが。

そう、わかります。その「文化的神話」についても、もっと進んだ文明における行動や倫理についても、もっとあとで、くわしく話していただきたいと思います。でも、いまは、もう一度だけさっきの質問に戻って、そっちを解決しておきたいんですが。
あなたとお話ししていて困るのは、答えがあまりにもおもしろい方向に展開していくので、最初の話題を忘れてしまうことなんですよ。さっきは結婚について話していたんです。愛について、愛には何が必要かについて、話しあっていたんです。

愛には何も必要ない。それが愛だ。
誰かへの愛が要求をともなうなら。それは愛ではなく、まがいものだよ。
あなたの問いに答えるたびに、さまざまにちがった方法で言ってきたのはそのことだ。たとえば、結婚するときには誓いのやりとりがあるが、それは愛には必要ない。それでも、あなたがたが誓いあうことを要求するのは、愛の何たるかを知らないからだ。だから、愛が決して求めることのない約束を交わすのだよ。

それじゃ、あなたは結婚に反対なんだ!

わたしは何にも「反対」しない。ただ、見たままを語っているだけだ。
あなたがたは現実を変えることができる。「結婚」という社会的なしくみをつくりかえて、愛が決して要求しないものは要求せず、ただ愛が宣言することだけを宣言するようにできる。

言い換えれば、結婚の誓いを変えるんですね。

それだけではない。誓いの基本になっている期待を変える。その期待を変えるのは、なかなかむずかしいよ。文化的遺産だからね。それは文化的神話から生まれている。

また文化的神話に話が戻りましたね。どうして、そればかりおっしゃるんですか?

正しい方向を教えてあげたいからだ。あなたがたの社会がめざすと言う場所がわかるから、どっちの方向へ行けばいいのかを人間の言葉で伝えようとしているのだよ。例をあげてみようか?

お願いします。

あなたがたの愛に関する文化的神話のひとつは、愛とは受けるよりも与えるものだということだ。
これは、文化的な規範になっているね。だが、おかげであなたがたは頭が変になりかけているし、誰ひとり想像もつかなかったような被害が生じている。
人びとは間違った結婚に落ちこみ、のがれられない。あらゆる関係が機能不全におちいっているのに、誰も あなたがたが指針を求める親も、インスピレーションを求める聖職者も、明晰な分析を求める心理学者や精神科医も、知的な指導を求める作家や芸術家も  誰も流布した文化的神話に逆らおうとしない。
そこで、その神話を不滅にする歌がつくられ、物語が語られ、映画が制作され、指針が与えられ、祈りが捧げられ、子育てが行われる。あとは、そのとおりに生きるだけだよ、ということになる。
ところが、あなたがたにはそれができない。問題はあなたがたではなく、神話にあるのだよ。

愛は受けるよりも与えるもの、じゃないんですか?

ちがう。そうだったことは一度もない。

でも、あなた自身がおっしゃったじゃないですか。「愛は何も必要ない」って。それが愛だって。

そうだ。よく、わかっているではないか。

それは、「受けるよりも与える」ことだというのと同じに聞こえますよ!

それでは、一冊目の対話の八章を読みなおしたほうがいいね。そこでみな説明してある。

わかっています。でも、一冊目の対話を読んでいない人もいますよ。ですから、ここでも説明していただけませんか? 正直なところ、わたしも復習したいんです。いま、ようやく、わかりかけた感じですから!

よろしい。こういうことだよ。
あなたが他者に対して何かをすれば、自分に対してもすることになる。他者に何かをしてやらなければ、自分にもしてやらないのだ。他者にとって良いことはあなたにとっても良いことだし、他者にとってまずいことはあなたにとってまずいことだ。これが最も基本的な真実だ。だが、あなたがたはしじゅう、無視している。
さて、他者と関係を結ぶとき、目的はたったひとつしかない。ほんとうの自分とは何者かを決定し、宣言し、創造し、表現し、経験し、最高の姿を実現することだ。ほんとうの自分が親切で思いやりがあり、心づかいをし、分かち合い、共感と愛情あふれる人間であるなら、ひとに対してそういう人間であることで、自分も最も偉大な経験をすることになる。
それが、あなたが身体に宿った目的なのだよ。相対的な世界の物質的な領域でしか、自分を知ることはできない。絶対の領域では、知るという経験は不可能なのだ。
ところで、ほんとうのあなたが自己を愛さない存在だとしたら、そして虐待され、傷つけられ、破壊されるままになる存在だとしたら、そういう経験につながるふるまいをしつづけるだろう。だが、ほんとうは親切で思いやりがあり、心づかいをし、分かち合い、共感と愛にあふれる人間なら、その相手に自分自身をふくめるはずだ。それどころか、まず自分から始めるだろう。自分を第一にするだろう。
人生のすべては、あなたがどんな存在になりたいかで決まる。たとえば、あなたがすべての他者と「ひとつ」になりたいなら、具体的に「ひとつ」であることを体験し。示せるように行動するだろう。そういう考えで行動すれば、結果として他者のためではなく、自分のためにしたのだと感じるだろう。ほんとうの自分として何を求めるにしても、同じことだ。愛があふれる存在になりたいなら、ひとと一緒に愛があふれる行動をするだろう。ひとのためではなく、ひとと一緒に。
このちがいに注意しなさい。ニュアンスのちがいをくみとりなさい。自分のために、ひとと一緒に愛があふれる行動をする。それによって、あなたはほんとうの自分についていだく最も偉大な考えを現実化し、体験する。
だから、他者のために何かをするというのは、ありえない。あなたの決断という行為(act)は、文字どおり演技(act)だから。あなたは演じている。ある役割を創造し、その人物になる。ただし、これはふりをするのではない。実際にその人物になるのだ。あなたがた人間がどんな存在になるかは、自分で選択して決めている。
シェイクスピアは「全世界は舞台だ、人間は役者だ」と言った。また、こうも言った。「存在するか、しないか、それが問題だ」
さらに、こうも言った。「自分に忠実であれ。そうすれば、あとのことは自然についてくる。夜が昼に続くように。他人に対してもいやでも忠実にならざるをえない」
自己に対して誠実で、自己を裏切らなければ、ひとに「与える」ように「見えて」も、実際には「受けとって」いることがわかるだろう。じつは、自己に与えているからだ。
じつは他者に「与える」ことはありえない。理由は簡単で、「他者」というものはないからだよ。われわれすべてが「ひとつ」なら、あるのはあなただけだろう。

そういうのって、ときどき、言葉の「トリック」じゃないかと思いますよ。言葉をあやつって、意味をかえてしまってるんじゃないかって。

トリックではなく、魔術だよ!言葉をあやつって意味を変えているのではなくて、概念をあやつって経験を変えているのだ。あなたがたの経験はすべて概念にもとづいている。概念は理解に、理解は神話にもとづいている。神話、つまり教えられてきたことだ。
いいかね、現在のあなたがたの文化的神話は、あなたがたの役に立たない。あなたがたがめざすとうところへ、連れていってはくれない。
あなたがたがめざすという場所が嘘なのか、それともそこへ向かってはいないという事実に目をつぶっているのか、どちらかだね。個人としても、国としても、種としても、人類としても。

他の種というのが存在するんですか?

ああ、もちろん。

それじゃ、そのことを話してください。ずっと、待っていたんですよ。

もうすぐ、もうすぐだ。だが、まず、あなたがたが考え出した「結婚」をどうすれば変えられるか、そして、どうすればめざすところに近づけるかについて話そう。破壊したり、捨てたりすることはない。変えなさい。

そう、たしかにそのことも知りたいですよ。人間に真の愛を表現させる方法がないものか、ずっと知りたかったんです。それでは、この章は最初の話題に戻って締めくくりましょう。愛の表現にはどんな制限を課したらいいか。ひとによっては、課さねばならない、と言うでしょうが。

何もない。制限はまったくない。結婚の誓いでも、それを宣言すべきなのだよ。

驚いたな。だって、ナンシーと結婚するとき、わたしたちはそう誓ったんです。ナンシーと結婚しようと決めたとき、ふいに、新しい結婚の誓いをしようと思いついたんですよ。ナンシーも賛成してくれました。「伝統的な」結婚の誓いを交わすのは不可能だって、わかってくれたんです。

知っているよ。

それで、一緒に「新しい」結婚の誓いを書いた。あなたの言う「文化的な規範を決めた」んです。

そう、そうだったね。よくやった。誇りに思うよ。

牧師さんに読んでもらうために、あの誓いの言葉を紙に書きながら、これはインスピレーションだ、二人にインスピレーションが与えられたんだと感じましたね。

もちろん、そうだよ! わたしが、本を書かせるだけだと思ったのかな?

そうなんだ!

そう、そうなんだよ。それでは、あの結婚の誓いをここに記したらどうだね?

え?

記してごらん。コピーをもっているだろう。ここに書きなさい。この対話が始まるとき、これを世界に見せるとは思っていなかっただろう。さあ、記しなさい。

「わたしたちは完璧な結婚の誓いを書いた!」なんて言っているように思われたくないですよ。

急に、ひとにどう思われるかが心配になったのか? いいかな、誰も「完璧な結婚の誓い」だなんて言わないよ。ただ、いままでのところ、地上で最善の誓いだ。

そんな・・・・・!

なーに、冗談さ。からかっただけだよ。さあ、誓いをここに記しなさい。責任はわたしがとってあげるよ。みんなにもあの誓いをするよう、勧めたらいい。実際には「誓い」ではなくて、結婚の声明だがね。

それじゃ、そうします。ナンシーと結婚したとき、二人が宣言しあったのはこういうことでした。
・・・あのとき、「インスピレ-ション」をお与えになったことに感謝します。

結婚する理由は、安定を求めるからではない。
また、心の安定が得られるのは、相手を自分のものとして所有したり、支配したり、また所有されたり、支配されたりするからではない。
人生で必要なものを相手に要求したり、期待したり、希望するからですらない。
心の安定が得られるのは、人生で必要なもののすべて  すなわち愛と智恵と洞察と、力と知識と理解と、慈しみと共感と強さのすべてが自分自身のなかに存在することを知っているからだ。
それを相手から得るためにではなく、お互いに贈りたいから、それによって相手をもっと豊かにしたいから、わたしたちは結婚する。
自分のなかの最高にして最善のものを正直に表現することをお互いに制約したり、コントロールしたり、妨げたり、お互いを束縛するために結婚するのではない。
義務を生み出すためにではなく、機会を提供するために、成長する機会、お互いの魂を結びあわせることを通じて神との究極の一体化を実現する機会を与えあうために、わたしたちは結婚する。
わたしたちは対等なパートナーとして愛する人と人生を旅し、すべてのパートナーシップにつきものの権威と責任を平等に分かちあい、平等に負担を引き受け、平等に栄光に浴する。
わたしたちは、赤いバラを交換する。結婚という物質的なしくみのなかで、生身の人間としてどう暮らしていくかを知って同意するしるしに。
わたしたちは、白いバラを交換する。二人の上にいつまでも輝く神の愛の純粋さのしるしに。
わたしたちは指輪を交換する。はじまりも終わりもない、太陽と地球と宇宙のシンボルである丸い輪を、支配でなく合体、制約でなく協力、束縛でなく手を繋ぎあうシンボルとして。
この結婚の秘跡(ひせき)を執り行えるのは当人たちだけであり、それを神聖なものとできるのも当人たちだけである。わたしたちはすでに心に刻まれた真実をここに表明し、集まった友人と精霊の前で証言する。
アーメン。

この言葉を口にするのがむずかしいというひとたちもいるだろうね。守るのがむずかしいというひとたちもいるだろうよ。

わたしたちも守りつづけていきたいと願っています! だって、ここに記せば、これからは守らなければならなくなりますから。

「もちろん、何も要求されない誓いなら誰だって守れるさ!」と言うひとたちがいるだろうな。そういうひとには、何と言うかね?

こう言いますよ。「誰かを支配するよりも自由にさせるほうが、ずっとむずかしい。誰かをコントロールしていれば、自分の望みどおりになる。だが、誰かを自由にさせておけば、そのひとの望みどおりになるんだから」

なかなか、うまいことを言う。
わたしが結婚に反対するはずがあるかな? わたしたちはみな、結婚している。互いに結婚しているじゃないか。いまも、そして永遠に。わたしたちは結ばれている。わたしたちは「ひとつ」だ。これまでで最大の結婚式だよ。わたしのあなたへの誓いは、これまでで最も偉大な誓いだ。わたしはあなたを永遠に愛し、すべてから自由にする。わたしの愛は決してあなたを縛ることはない。それゆえに、あなたは最後にはわたしを「愛する」ことになる。ほんとうの自分でいる自由こそ、あなたの最大の望みであり、わたしの最大の贈り物だから。宇宙の最高の法律に従って、わたしを合法的な結婚相手、創造の協力者にするかな?

します。そして、あなたもわたしをパートナーとして、創造の協力者にしてくださいますか?

するよ。いつも、そうしてきた。いまも、そして永遠に、わたしたちは「ひとつ」だ。
アーメン。

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