5つの自然な感情について
5つの自然な感情(悲しみ、怒り、羨望、不安、愛)がゆがめられたときに
感情はグロテスクになり、愛の派生物とは思えなくなる。
ニール・ドナルド・ウォルシュ著 「神との対話3」1章 から一部引用
それで、五つの自然な感情について教えていただけませんか。もう一度、聞きたいんです。
悲しみも自然な感情だ。悲しむことができるから、言いたくないときにも「さようなら」が言える。
ひとは何かを失う体験をしたとき、自分のなかの悲しさを表す(外に向かって押し出す)。愛する者を失う悲しみもあれば、コンタクトレンズをなくした悲しみもあるだろう。悲しみを表すことができれば、悲しみは処理できる。
悲しいときには悲しんでいいんだよ、と言われて育った子供は、おとなになったとき、悲しみは健全だと思える。だから、とても早く悲しみから抜け出せる。「こらこら、泣いてはいけません」と言われた子供は、おとなになって泣きたいとき、苦しい思いをする。だって、泣くなと言われて育ったのだからね。だから、悲しみを抑圧する。
抑圧されつづけた悲しみは、慢性的なうつになる。非常に不自然な感情だ。人びとは、慢性的なうつのために人殺しをしてきた。戦争が勃発し、国が滅んだ。
怒りは自然な感情だ。「ノー」と断るための道具だ。必ずしも無礼なものとは限らないし、決して他
者を傷つけるものではない。
怒ることを許されて育った子供は、おとなになったときも怒りに対して健全な態度でいられる。だから、とても早く怒りから抜け出せる。怒りはよくないものだと教えられて育った子供、怒りを表してはいけない、それどころか怒りを感じることすらいけないと言われて育った子供は、成人後、怒りをうまく処理するのに苦労する。
抑圧されつづけた怒りは、憤怒になる。非常に不自然な感情だ。人びとは怒りのために人殺しをしてきた。戦争が勃発し、国が滅んだ。
羨望は自然な感情だ。5歳の子供が、お姉ちゃんのように自転車に乗れるといいなと思う、その感情だ。羨望という自然な感情があるから、もう一度やってみたいと思う。もっとがんばろうと思う。成功するまであきらめないぞ、と思う。羨望を感じるのはとても健全で、自然なことだ。
羨望を表すことを許されて育った子供は、おとなになったときも羨望に対して健全な態度でいられる。
だから、とても早く羨望から抜け出せる。羨望はよくないものだと教えられて育った子供、羨望を表してはいけない、それどころか羨ましいと感じることすらいけないと言われて育った子供は、成人後、羨望をうまく処理するのに苦労する。
抑圧されつづけた羨望は、嫉妬になる。非常に不自然な感情だ。人びとは嫉妬のために人殺しをしてきた。戦争が勃発し、国が滅んだ。
不安は自然な感情だ。赤ん坊はみんな、不安を二つだけもって生まれてくる。墜落する不安と大きな音に対する不安だ。ほかの不安はすべて学習された反応で、環境から学び、親に教えられる。もって生まれた自然な不安の目的は、もうちょっと注意しなさいとわからせることだ。身体を安全に生きながらえさせるための注意。それは愛から生まれる。自分自身への愛だ。
不安はよくないものだ、不安を表してはいけない、不安を感じることすらいけないと言われて育った子供は、成人後、不安をうまく処理するのに苦労する。
抑圧されつづけた不安はパニックになる。非常に不自然な感情だ。人びとはパニックのために人殺しをしてきた。戦争が勃発し、国が滅んだ。
愛は自然な感情だ。子供が正常に自然に、制限や条件をつけず、禁忌や気まずさなしに愛を表現し、受け入れることを許されて育つと、それ以上必要としなくなる。こんなふうに表現され、受け入れられた愛の喜びは、それだけで充分だから。だが、条件や制限をつけられ、規則やしきたり、儀式や制約によってゆがめられ、管理され、あやつられ、抑えられた愛は不自然になる。
自然な愛はよくないものだ、愛を表してはいけない、それどころか愛を感じることすらいけないと言われて育った子供は、成人後、愛をうまく処理するのに苦労する。
抑圧されつづけた愛は所有欲になる。非常に不自然な感情だ。人びとは所有欲のために人殺しをしてきた。戦争が勃発し、国が滅んだ。
自然な感情が抑圧されると、不自然な反応と対応が生じる。たいていのひとは、最も自然な感情を抑圧している。だが、自然な感情はあなた方の友人だ。贈り物だ。経験をきざみ出す神聖な道具だ。あなたがたは、生まれたときに与えられたその道具を使って、人生をうまく渡っていくべきなのだ。
どうして、たいていのひとは自然な感情を抑圧しているのですか?
抑圧しろと教えられたから。そう言われたからだ。
誰に?
親に。育ててくれた人間に。
なぜ? なぜ、そんなことをするんでしょう?
なぜかって、親にそう教えられたからだ。親はまた、その親に教えられたから。
そう、そうですね。でも、なぜなんだろう? どうなってるんでしょうね?
どうなっているかって? つまり、間違った人間が子供を育てているのさ。
どういう意味ですか?「間違った人間」って誰のことですか?
母親と父親。
母親と父親が子供を育てているのは、間違っているんですか?
親が若いときには、そうだ。まったく、おおぜいの親がなんとか上手に子供を育てているのは奇跡だよ。若い親ほど、子供を育てるのに不適切な人間はいない。それを誰よりもよく知っているのも若い親なのだがね。たいていの親は、ほんの短い人生経験しかないまま、子育てをする。自分自身がろくに育ち終わっていなくて、答えを求め、鍵を探しているのに。
親はまだ自分自身を発見していないのに、自分よりもさらに傷つきやすい者を導き、発見の手引きをしようとする。自分自身が何者かを決めかねているのに、他者が何者かを決める行為に突進する。当人自身が親たちにまずい決め方をされて、それをなんとか克服しようとしている最中なのだがね。
親はまだ自分が何者かを発見していないのに、子供が何者かを教えようとする。これを正しく教えようとするプレッシャーはじつに大きい。しかもまだ、自分自身の人生を「正す」ことさえできていない。だから、何もかも間違ってしまう。自分の人生も子供たちの人生も。
運が良ければ、子供たちはそう大きな被害を受けなくてすむだろう。子供たちは、被害を克服する。
それでも、一部はさらにその子孫に伝わるだろう。あなた方の大半は、子育てが終わってずっとたってから、すばらしい親になるための智恵と忍耐と理解と愛を身につける。
どうしてなんでしよう? わかりません。たしかに、多くの場合はおっしゃるとおりだと思いますが、どうして、そんなふうになってしまうのでしようか?
それは、子供を産む若者たちが子供を育てるようにはできていないからだ。あなたのいる社会でいうと、もう育児期間が終わっているころに、子育ては始まるべきだ。
生物学的に見て、人間は自分が子供のうちに子供をつくることができる。驚くかもしれないが、生まれて40年、50年はまだ子供なのだよ。
人類は40年も50年も「自分が子供」なんですか?
ある意味から言えばそうだ。まさかと思うだろうが、まわりを見まわしてごらん。人類のふるまいを見れば、わたしの言うことが正しいとわかるのではないかな。困ったことにあなたの属する社会では、21歳ですでに「成人」して世間に出られると言われる。しかも、親の大半も、21歳よりそう上ではない若さで子育てを始める。それを考えれば、何が問題かわかってくるだろう。子供を産む者が育てるべきだとしたら、50歳になるまで子供はつくれないかもしれないな!
子供をつくるのは、よく発達した強い身体をもつ若者の活動だ。
子供を育てるのは、よく発達した強い精神をもつ年長者の活動だ。
あなた方の社会では、子供をつくった者に子育ての責任を負わせる。その結果、子育てが非常にむずかしくなるばかりでなく、性的な活動を包むエネルギーまでゆがめられる。
ふうむ・・・・説明していただけますか?
よろしい。たくさんのひとが、わたしと同じことに気づいてきた。たとえば、多くの人間(ほとんどの人間)は、子供をつくれても、ほんとうに子育てをする力はない。ところが、そこに気づいた人間は、間違った結論を出してしまった。
若者にセックスを楽しませるかわりに、また、生まれた子供を年長者に育てさせるかわりに、「子育ての責任がとれるまではセックスをするな」と若者たちに言う。性体験をすることは「間違っている」と、人生で最も楽しくて喜ばしいことのまわりにタブーを築く。もちろん、若者たちはタブーには目もくれない。それも、当然だろう。そんなタブーを守るのは、まったく不自然だからだ。
人間は時期が来たという内なるしるしを感じたらすぐ、カップルになりたい、交合したいという欲求を感じる。それが人間の自然な性質なのだ。ところが、何が自然な性質だと考えるかは、自分自身が感じることよりも、親が教えることで決まる。子供たちは、人生について親に教えてもらおうとする。
だから、お互いをのぞき見たい。無邪気に互いをもてあそびたい。互いの「相違」を探求したいという欲求をはじめて感じると、どうしたらいいのかと親をうかがう。この欲求は「良い」のか、それとも「悪い」のか? 肯定されるのか? 押さえつけられるのか? 妨害されるのか? 眉をひそめられるのか? この人間の欲求について、多くの親たちはさまざまなことを基本に、子供たちに語る。
自分が教えられたこと。宗教が教えていること。社会が考えること。何でもだが、ものごとの自然な秩序だけは基本にされない。
人間という種の自然な秩序では、セクシュアリティは9歳から14歳で芽生える。15歳にもなれば、たいていはっきりと存在しているし、外に現れる。そこで時間との競争が始まる。子供たちは自分の喜ばしい性的エネルギーを思いっきり発散させようと突っ走り、親たちはそれを止めようと突っ走る。
この闘いでは、親にはあらゆる助け、あらゆる援軍が必要だ。さっきも言ったとおり、子供たちに自然な性質そのものであることを禁止しようというのだからね。
そこで、おとなたちは家族、文化、宗教、社会、経済とあらゆる圧力やら制約やら制限を編み出して、子供たちに対する不自然な要求を正当化してきた。子供たちは、自分自身のセクシュアリティを不自然なものだと思って育った。どうして、「自然」なことがこれほどはずかしめられ、禁止され、管理され、押しのけられ、制約され、たがをはめられ、否定されてきたのだろうね?
でも、そこまでおっしゃるのは、ちょっと大げさすぎるんじゃありませんか?
そうかな? 親たちが身体器官の一部の正しい名前さえ口にしないとしたら、4、5歳の子供にどんな影響を与えると思う? あなたは子供たちに、どのくらいこだわりなく口にできるかな?また、子供たちが、どのくらいこだわりなくできればいいと思うかな?
うーん・・・・・。
そう、「うーん」だろう。
ですが、うちのおばあちゃんがよく言ったように、「そういう言葉は使わないことになってる」んですよ。それよりも、「おしっこ」とか「おしり」とか言うほうが、聞こえがいいから。
あなたがたがそういった身体器官の名前にマイナスの「イメージ」をもっているから、ふつうの会話のなかで使えないだけだよ。
もちろん、幼い子供たちは、どうして親がそんな態度をとるのかわからない。ただ、身体器官の一部は「OKじゃない」し、関係することはすべて「まずい」という消えない印象を植えつけられる。
10代になった子供たちは、ほんとうはそんなことはないと気づく。だが、そのころには、妊娠とセクシュアリティの関係をはっきりと教えられ、生まれた子供は育てなければならないと言われるから、べつの意味で性の表現は「まずい」と思うようになる。こうして、円は完成する。
それであなた方の社会はどうなるか。紛糾し、少なからぬ混乱におちいる。自然をばかにすると、必ずそういう結果になるのだよ。あなたがたは性的な気まずさ、抑圧、恥ずかしさを生み出した。それが性的禁忌、機能不全、暴力につながる。
社会全体としては必ず、気まずいことは禁止されるし、抑圧されたことは機能不全におちいる。恥ずかしくないことを恥ずかしいと思わされると、暴力的な行動になるのだ。
それでは、人間の怒りの大きな部分は性に関連している、基本的で自然な肉体の本能や利害、衝動などを抑圧したための根深い怒りだ、と言ったフロイトは正しかったわけですね。
そのへんを見抜いた精神医学の専門家はひとりだけじゃない。人間は、こんなに心地よく感じるものを恥ずかしがるべきではないと知っているのに、それでも恥ずかしいと感じ、罪悪感をいだく。だから、怒る。
第一に、「悪い」とされていることを心地よく感じる自分に怒る。つぎに、だまされたとようやく気づくと、つまり、セクシュアリティはすばらしい、立派な、輝かしい人間体験のひとつだと悟ると、他者に対して怒りを覚える。抑圧した親、はずかしめた宗教、挑発した異性、管理しようとする社会全体に怒る。最後に、禁忌を受け入れた自分自身に対して怒る。
この抑圧された怒りのほとんどは、誤ったゆがんだ倫理的価値観の形成に向かう。あなたがたはそういう社会で暮らしている。その社会では記念碑や銅像をつくり、記念切手を発行し、映画や絵画やテレビ番組を制作して、世界で最もみにくい暴力行為をたたえたり、崇(あが)めたりするのに、世界で最も美しい愛の行為のほうは隠すどころか貶(おとし)めている。
それもこれもみんな、みんなだよ、たったひとつの考え方から生じている。「子供をつくったら、育てる責任もひとりで負わなければならない」という考え方だ。
でも、子供をつくった者に育てる責任がないのなら、誰にあるのですか?
コミュニティ全体だ。とくに年長者だ。
進んだ種族の社会では、年長者が子供たちを育て、慈しみ、訓練し、智慧や教えや自分たちの伝統を伝える。この話はあとで、そうした進んだ文明について話すときに、もう一度とりあげるがね。
どんな社会でも、若いうちに子供をつくるのが「間違っている」とはみなされない。部族の年長者たちが子供を育てるから、押しつぶされそうな責任や負担を感じない。性の抑圧などという話も聞かないし、レイプも異常性愛も社会的な性的機能不全もない。
そんな社会が地球上にあるんですか?
あるよ。ただし、消えかけているが。あなたがたが彼らを滅ぼし、同化させようと図ってきたのだ 野蛮だと考えてね。ところが、野蛮でないつもりのあなたがたの社会では、子供たちは(それに妻や夫も)財産、個人的な所有物と考えられ、子供をつくった者が子育てをしなければならない。自分の「所有物」の世話は自分でしなければならないからだ。
あなたがたの社会のたくさんの問題の根にあるのは、配偶者でも子供も個人的な所有物で、「自分のものだ」という考え方なのだよ。
「所有」ということについては、高度に進化した存在の暮らしについて探究し、話しあうときに、またとりあげる。だが、少しだけここで考えておこう。肉体的に子供をもてる年齢で、ほんとうに子供を育てるだけの感情的な準備ができている者がいるだろうか?
ほとんどの人間は、30代、40代でも子供を育てるだけの力を備えていない。そんなことを期待すべきでもない。子供に深い智慧を伝えるほど長くは、成人後の人生を生きていないのだからね。
そういう考え方は前にも聞いたことがあります。マーク・トゥエインも同じようなことを言ってますね。「わたしが19歳のとき、父は何も知らなかった。だが、35歳になったころ、わたしは父がいかに多くを学んでいたかに目をみはった」と。
彼にはよくわかっていたのだ。若い時代は真実を教えるためではなく、真実を採集するためにある。
自分がまだ採集できていない真実を、子供たちに教えられると思うかね?
もちろん、できはしない。だから、自分が知っている真実だけを教えることになる。つまり、他者の真実だ。父親の真実、母親の真実、文化の真実、宗教の真実、何でもあるが、自分自身の真実はない。
まだ、模索中だから。この地球上で半世紀近くを過ごすまで、あなたがたは自分自身の真実、自分自身についての考えを探し、経験し、発見し、失敗し、そのなかで落ち着く。ただ、あなたもたぶん納得するだろうが、最大の真実とは、「固定した真実などはない」ということだ。真実は生命そのもののように変化し、成長し、進歩していく。自分の進歩のプロセスは終わったなどと考えても、そんなことはない。それどころか、そのときにやっと進歩が始まる。
ええ、自分でもそう思います。50歳を過ぎて、ようやくわたしもその段階に達しました。
よろしい。いまのあなたは前よりも賢い。それに年長だ。いまこそ、子供を育てるといい。もっといいのは、これから10年後だろう。
真実を、人生を知っているのは年長者だ。何が重要で、何が重要でないかを知っているのも、年長者だ。誠実とか正直、忠実、友情、愛といった言葉のほんとうの意味も知っている。
おっしゃることはよくわかります。そうは思いたくないが、わたしたちの多くは、「子供」から「学生」に移ったかどうかで親になり、子供たちを教育しなければならないと感じる。そこで、自分の親に教えられたことをそっくり教えるようになるんでしょうね。
そうやって、父の罪が息子に伝わり、さらには7代にもわたって受け継がれていく。
どうすればかえることができますか? どうすれば、その悪循環を断ち切れますか?
尊敬する年長者たちに子育てをゆだねなさい。親は、会いたいだけ子供に会えばいいし、一緒に暮らしたかったらそうすればいいが、子育ての責任を自分だけで負うことはない。肉体的、社会的、精神的に子供が必要とすることは、コミュニティ全体が満たしてやればいい。年長者の価値観にしたがって教育をするのだよ。
この対話のあとのほうで、宇宙のべつの文化についてとりあげるとき、新しい生活モデルの話をしよう。
だが、いまのあなたがたの暮らしの構造のままでは、そのモデルはうまく働かないね。
どういう意味でしょう?
あなたがたのモデルが無益なのは、子育てだけではない。生活全般にわたっている。
もう一度うかがいますが、どういう意味なんですか?
あなたがたは、互いから遠ざかってきた。家族を分裂させ、小さなコミュニティを解体して、大都市をつくった。大都市にはおびただしい群衆がいるが、ひとりひとりが集団全体への責任を感じるような「部族」、グループ、氏族などは数少ない。だから実質的には、あなたがたには年長者がいない。とにかく、手の届くところにはいない。
年長者から遠ざかるよりもっと悪いことに、あなたがたは彼らを押しのけた。片隅に追いやった。力を奪った。恨みさえした。そう、一部の者は年長者を恨み、システムに巣くう寄生虫だ、彼らが福祉を求めるから、若者の負担がますます多くなると責めている。
それはそのとおりですね。世代間闘争を予言する社会学者もいます。老人はますます多くのものを得るのに、貢献はどんどん少なくなると非難されている。いわゆる「ベビーブーム世代」が老いてきましたし、一般に長生きになったから、高齢者が増えているんです。
だが、年長者が貢献しないとしたら、それはあなたがたが貢献させないからだ。会社でほんとうに良い仕事ができるようになったところに退職させ、彼らの参加によって進歩に何らかの意義がもたらされるころに、積極的な意思のある活動から退かせる。
子育てだけではなく、年長者たちがかろうじて足がかりを得ている政治、経済、宗教でさえも同じことだ。あなたがたの社会は若者を崇拝し、年長者を追放している。
それに、複数社会ではなく、単数社会にもなっているね。つまり、グループではなく個人単位でできあがっている社会だよ。社会が個人化し、若者化したために、あなたがたは豊かさや資源をたくさん失った。だからおおぜいが感情的にも心理的にも貧しく枯渇した暮らしをしている。
もう一度、うかがいたいのですが、この悪循環を断ち切る方法はあるのでしょうか?
第一に、それが現実だと認めることだ。あまりにも多くの者が否定しつつ生きている。あまりに多くの者が、これほど明らかなことから目をそらしている。自分に嘘をつき、真実に耳をふさぐ。まして、語ろうとはしない。
このことは、また話そう。否定する、真実を見つめられない、認識できないというこの問題は、おろそかにはできないから。それに、ほんとうにものごとを変えたいなら、まず、わたしの言葉に耳を傾けてもらいたいから。真実をやさしく単純に語る時が来ている。用意はいいかな?
はい。そのために、あなたのもとへ来たのです。この対話が始まったのも、そのためでしょう?
真実は快くないことが多い。真実を無視するまいと思う者だけが、真実に慰められる。そのとき、真実は快いだけでなく、インスピレーションのもとになる。
この対話三部作すべてが、わたしにはインスピレーションのもとです。どうぞ、続けてください。
将来が明るいと思える面もあるよ。ものごとは変わりはじめている。あなたがたの種は、最近になってコミュニティづくりを強調し、拡大家族を築くようになった。しかも、若者たちはだんだん年長者を尊敬するようになり、彼らの人生に意義や価値を見いだしはじめている。これは有意義な方向へのすばらしい第一歩だね。こうして、事態は「方向転換」する。あなたがたの文化にも、それが起こったようだ。あとは前進すればいい。
変化は、一日では完成しない。たとえば、子育ての方法が現在の思考の連鎖の起点だが、いっぺんに変えることはできない。だが、未来を一歩一歩、変えていくことはできる。
この本を読むのも、その一歩だ。この対話のなかで、たくさんの重要なポイントをふたたびとりあげよう。無意味なくり返しではないよ。強調するためだ。
さて、あなたは明日を築く考えについて聞いたのだったね。では、昨日の話から始めようか。
過去が未来と、どんな関係があるんですか?
「神との対話3」 第2章
過去を知れば、未来の可能性ももっとよくわかる。あなたは、どうすれば人生がもっとうまくいくのかをたずねに、わたしのもとへやって来た。どうして、今日あなたがいる場所にたどり着いたのかを知るのも無益ではないだろう。
わたしは、力について、そして強さについて、またこの二つのちがいについて、語ろうと思う。それから、あなたがたがつくり出した、例の悪魔についても話そう。なぜ、どうやって悪魔をつくり出したのか、どうやって神は「彼」であって、「彼女」ではないと決めたのか。
それから、あなたがたの神話で言われているのとはべつの「ほんとうのわたし」についても話そう。
わたしという存在についてもきちんと説明し、あなたがたが喜んで神話を宇宙論と換えられるようにしてあげよう。真の宇宙、宇宙とわたしの関係についての宇宙論だよ。生命とは何か、どのように働くのか、どうしてそう働くのかも教えてあげよう。この章では、そのすべてを話してあげるよ。
これがわかれば、あなたがたの種がつくり出したものを捨てる決心がつくはずだ。これから、新しい世界の秩序、新しい現実の創造をとりあげるのだから。
わが子よ、あなたがたはあまりにも長く、自分がつくり出した監獄のなかで暮らしてきた。そろそろ、自らを解き放つときだろう。
あなたがたは五つの自然な感情を閉じこめ、抑圧し、非常に不自然な感情に変え、そのために、不幸や死、世界の破壊が生じた。
何世紀ものあいだ、地球上の行動のルールは、感情に「ひたる」な、ということだった。 悲しみをおぼえたら、克服しなさい。怒りがこみあげたら、押し殺しなさい。羨望をいだいたら、恥じなさい。不安になったら、そこから抜け出しなさい。愛を感じたら、コントロールし、限界をもうけ、じっと待ち、そこから逃げなさい。何をしてもいいから、とにかく、いまこの場で思いっきり愛を表現したりしないように と言って来た。もう、自分自身を自由にしてもいい。
じつは、あなたがたは聖なる自己を閉じこめてきた。もう、自分を自由にする時だ。
わくわくしてきました。どこから始めればいいでしょう? 何から始めればいいですか?
どうしてこんなことになったのかを振り返るにあたって、まず、あなたがたの社会が組みかえられた時代へ戻ろう。人間が支配的な種となり、感情をあからさまにするのはまずい、場合によっては感情をいだくことすらよくないと決めたときだ。
「社会が組みかえられた」とは、どういうことですか? 何の話をしてらっしゃるんですか?
歴史の初期には、地球は母型社会だった。それから変化が起こって、父系社会が生まれた。この変化が起こったとき、あなたがたは感情を表現しなくなった。そんなことは「弱々しい」ことだとレッテルを貼った。この時代に、男性は悪魔をつくり、神は男性だと決めた。
男が悪魔をつくったんですか?
そうだ。悪魔は基本的に男性の発明だ。最後には社会全体がそれに従ったが、感情に背を向けたのも、「邪悪な者」の発明も、すべて母系社会と女性が感情によってすべてを支配していた時代への男性の反乱の一環だ。そのころは統治者の地位も、宗教的な権力者の地位も、商業、科学、学問、癒しの領域での影響力ある地位も、すべて女性が握っていた。
じゃ、男性にはどんな力があったんですか?
何もない、男性は自分の存在を正当化しなければならなかった。なにしろ、女性の卵を受精させる力と、重いものを動かす力以外には、ほとんど重要性がなかったからね。まあ、働きアリか働きバチのようなものだった。肉体労働をし、子供たちが生まれ、守られるようにしていたのだ。
社会の構造の中で、男性がもう少し大きな場所を得るのに数百年かかった。氏族の行事に参加し、コミュニティの決定に発言したり、一票を投じたりするまでに、さらに数世紀かかった。男性にはそういうことが理解できるほどの知性はないと、女性たちに思われていたんだよ。
おやおやジェンダーのちがいだけを理由に、ある階層の人びと全員に投票を禁じる社会があるなんて、想像しにくいですねえ。
あなたのユーモアのセンスはたいしたものだねえ、まったく。先を続けよう。
数世紀が過ぎて、やっと投票するチャンスを得た男性たちは、次に指導的地位を獲得したいと考えるようになった。ほかの影響力のある地位への道も、男性にたちには閉ざされていた。
男性がついに権威ある地位を獲得したとき、子供をつくるだけの、事実上、奴隷のような地位からやっと抜け出したとき、彼らは立派にも女性と立場を逆転させたちせず、ジェンダーの別なくすべての人間にふさわしい敬意と力と影響力を女性にも認めた、というわけですね。
ほらほら、またユーモア精神を発揮したな。
すみません、べつの星の話だったかな?
さっきの話に戻ろうか。だが、「邪悪な者」の発明をとりあげる前に、力について少々、話そうか。
なにしろ悪魔の発明では、要するに力が問題なのだから。
つまり、いまの社会では男性が権力ある地位をすべて握っているとおっしゃりたい、そうでしょう? 機先を制するようですが、どうしてそうなったか、言わせていただけますか。
母系社会では男性は女王バチに仕える働きバチみたいなものだった、とおっしゃいました。肉体労働をし、子供が生まれて、守られるようにしていた、と。それじゃ、言いたいですね。「どこが変わったのか? いまだって、同じじゃないか!」って。たいして変わっちゃいないさ、と言う男性はすごく多いと思いますよ。ただ、男性は、「わりの合わない役割」を担いつづける代償を獲得しただけです。つまり、もっと権力をもつようになった。
もっとというより、ほとんどの権力だね。
しかし、皮肉ですよね。どちらのジェンダーも、自分のほうがわりに合わない仕事をし、相手はおもしろおかしく暮らしていると思っているんです。男性は、権力の一部をとり戻そうとする女性を恨んでいる。社会のためにこれだけ尽くしているのだから、権力ぐらい握らせてもらわないでどうする、と考えているんです。女性のほうは、権力をひとり占めにしている男性を恨み、社会のためにこれだけ尽くしているのに、このまま無力でいるなんて冗談じゃない、と考えている。
あなたが分析してみせたとおりだ。そして、男性も女性も、自分で編み出したみじめさの悪循環のなかで、過ちをくり返しつづける。どちらかが、人生でほんとうに大切なのは力ではなく強さだ、と気づくまでは。また、大切なのはべつべつでいることではなく一体になることだと、両方が気づくまでは。なぜなら、内なる強さは「一体化」のなかに存在するから。べつべつでいると強さが消え、ひとは無力で弱いと感じる。そこで、権力を求めてあがく。
いいかね、お互いの不和を癒やしなさい。べつべつだという幻想に終止符を打ちなさい。
そうすれば、内なる力の源をとり戻せるだろう。そこに真の力を見いだせるだろう。何でもできる力だ。何者にでもなれる力だ。何でももてる力だ。なぜなら、創造する力は、「一体化」のなかにある内なる強さから生じるのだから。神との関係でも同じだよ。それに、ほかの人間たちとの関係でもまったく同じだ。
べつべつだと考えるのをやめなさい。そうすれば、「一体化」のなかの内なる強さから、社会全体としても、個々の部分としても、好きなように真の力をふるえる。
だが、覚えておきなさい。力は内なる強さから生まれる。内なる強さは、そのままの力からは生まれない。ほとんどのひとが、ここを逆に考えている。
内なる強さのない力は幻想だ。「一体化」なしの内なる強さは偽りだ。この偽りは人間という種のためにならないが、あなたがたの意識の中に深く埋めこまれている。あなたがたはばらばらな個から内なる力が生まれると考えているが、それはちがう。神から離れ、お互いから離れてばらばらでいることこそ、全ての機能不全と苦しみの原因なのだよ。
それなのに、あなたがたは、ばらばらな個でいることが強さだという顔をしつづけている。政治でも経済でも、宗教でさえ、この嘘をますますはびこらせている。この偽りがすべての戦争の起源であり、戦争につながるすべての階級闘争の起源であり、すべての人種やジェンダー間の憎しみの起源であり、憎しみにつながるすべての権力闘争の起源であり、全ての個人的な艱難辛苦(かんなんしんく)の起源であり、艱難辛苦につながるすべての内なる闘いの起源でもある。それなのに、あなたがたはその偽りにしがみついて離さない。自分の破滅につながっても、しがみついている。
よく聞きなさい。真実を知りなさい。そうすれば自由になれる。分離などない。お互いからも、神からも、何ものからも、ばらばらに離れてはいないのだ。この真実を、わたしは何度も、何度も語る。
なにごとからも、何者からも離れていないというつもりで行動しなさい。そうすれば、明日にも世界を癒すことができる。これが、あらゆる時を通じて最も偉大な秘密だ。人間が何千年も探し求めてきた答えだ。人間が苦労して求めつづけた解決策、祈りつづけた啓示だ。
なにごとからも離れていないつもりで行動しなさい。そうすれば、世界を癒せる。これは、何かとともにある力のことで、何かの上にふるう力ではないことを理解しなさい。
ありがとうございます。わかりました。で、話は戻りますが、最初は男性に対して女性が力をもっていたんですね。男性は、部族の女性指導者から力をもぎとるために、悪魔を発明したんですか?
そうだ。彼らは不安を利用した。不安が唯一の道具だったから。
男性は、いまでもそうですよ。ときには、理性に訴える前に、不安を利用する。とくに、身体の大きい男、強い男はそうです(大きな国家、強い国家も同じですね)男とは根っからそういうものだ。という感じさえします。細胞がそうなんじゃないかって。力は正義なり。強者は権力者なり。
そうだね。母系社会がくつがえされてから、ずっとそうだ。これから話す短い歴史で説明しようか。
ええ、どうぞ続けてください。お願いします。
母系社会の時代、男性が支配力を獲得するために必要だったのは、もっと力を与えろと女性を説得することではなくて、ほかの男性たちを説得することだった。
要するに、おだやかな暮らしが続いていたし、肉体労働をして役に立つところを見せ、それからセックスをする日々は、男性たちにとってもそう悪いものではなかった。もっとつまらない時間の過ごし方だってあるからね。だから、力のない男性たちが、力を獲得しようとほかの力のない男性たちを説得するのは、容易ではなかった。ただし、不安を発見するまでは。
女性たちは不安を計算に入れていなかった。この不安は、疑惑の種を蒔くことから始まった。いちばん不満の大きかった男性が蒔いた種だ。だいたいは、いちばん「モテない」男性だね。腕力も魅力もなくて、女性たちに相手にされない男性だ。
だから、彼らの不満は性的な欲求不満に根ざす怒りだろうと軽視されたんでしょう。
そのとおり。これら不満分子は、もっている唯一の道具を使うしかなかった。だから、疑惑の種を蒔いて、不安を助長しようとした。もし、女性たちが間違っていたら、どうする? そう、彼らはたずねた。世界を動かす彼女たちのやり方が最善ではなかったとしたら? それどころか、世界全体を、種族全体を、破滅に導こうとしているとしたら?
多くの男性たちは、そんなことは想像もしなかった。だって、女性たちは女神の直系ではないか?
女性たちは女神の肉体的なレプリカではないか? 女神は善ではないか?
この教えはきわめて強力で、すみずみまで行きとどいていたから、男性たちは邪悪な者、悪魔を発明して、母系社会で想像され崇(あが)められていた、偉大なる母の限りない善に対抗しなければならなかった。
しかし、「邪悪な者」がいるなんて、どうやって説得したんでしょう?
社会全体が理解していたことがひとつあった。「腐ったリンゴ」という理屈だ。女性たちでさえ、どうしても「ワル」になる子供がいるのを経験上、知っていた。手がつけられないのは、特に男の子に多いことも、周知の事実だった。そこで、神話が創り出された。
ある日、と神話は展開した。偉大なる母、女神のなかの女神が子供を産んだが、その子は良い子ではなかった。偉大なる母が何をしようと、子供は良くはならない。ついに、息子は母と玉座を争うまでになった。いくら愛情あふれる寛容な母であっても、これは赦せない。少年は永久追放となった。ところが彼はたくみに姿かたちを変え、衣装を変えて現れつづけ、ときには偉大なる母になりすました。
この神話を聞いて、男性たちはたずねた。「では、われわれが崇めている女神がほんものの女神だと、どうしてわかるのだろう? 不肖の息子が成長して、わたしたちをだまそうとしているのかもしれないではないか」。この仕掛けで、男性たちはほかの男性たちを不安がらせ、つぎに、女性たちがまじめにとりあってくれないと怒りをかきたて、反乱を起こさせた。
いま、あなたがたが悪魔と呼ぶ存在は、こうして創られた。「悪い子供」の神話を創り、そういう者がいるかもしれないと女性たちに納得させることは、困難ではなかった。また、悪い子供が男の子だと言えば、みんな、そうだろうとうなずいた。男性は劣ったジェンダーだ、そうではないか?
この仕掛けで、神話上の問題がでっちあげられた。「悪い子」が男の子で、「邪悪な者」が男性なら、彼を力で抑えられるのは誰か。男性たちは狡猾にも語った。智恵や洞察、明晰さや思いやり、計画や思考なら、もちろん女性のほうがまさっている。しかし、荒々しい力が必要なら、男性の出番ではないか?
それまでの女神の神話のなかでは、男性は単なる配偶者だった。女性のつれあいで、従者として仕え、荘厳な女神をことほぐ肉欲の祝祭のなかで、旺盛な欲望を満たしていた。ところが、男性は女神を守って、敵を討ち負かすことになった。変化は一夜にして起こったのではなく、何年もかかった。徐々に、ほんとうに徐々に、社会は男性配偶者を霊的な神話のなかの保護者として見るようになった。なにしろ、女神を守らなければならない敵がいるというのだから、当然、女神を守る保護者も必要だ。
保護者である男性から、平等なパートナーとして女神と並び立つ男性までの距離は、そう遠くなかった。男性の神が創造され。しばらくすると、神と女神がともに神話の主人公になった。
それから、これもまた徐々に、女神よりも神の役割のほうが大きくなった。保護と力の必要性が、智恵と愛との必要性にとってかわった。神話には新しい種類の愛が生まれた。荒々しい力で保護する愛だ。だが、それはまた保護する対象を切望する愛でもあった。そして、女神に嫉妬した。単に女神の女性的な欲望に仕えるだけでなくて、女神のために闘って死んだ。神話のなかに、巨大な力をもつ神々、形容しがたいほど美しい女神をめぐって争い、戦う神が出現しはじめた。
うわあ、すごいですねえ。
待ちなさい。そろそろ終わりだが、まだ少し話さなければならないことがある。
神々の嫉妬が女神だけでなく、生きとし生けるもの全てに拡大するのに時間はかからなかった。ひとは神を、嫉妬深く要求がましい神を愛したほうがいい。それも、この神だけを愛するべきだ。さもいと! 男性は最も力の強い種族で、神々は最も力の強い男性だったから、反論する余地はほとんどないように見えた。神々に反抗し、敗れた者たちの物語ができはじめた。神々の怒りが生まれた。
まもなく、神性についての考え方が一変した。すべての愛の源である存在から、すべての不安と恐れの源である存在になった。愛のモデルはだいたいが女性的だった。母親が子供にいだく限りなく寛容な愛から、あまり賢くはないが役に立つ男性に対して女性がいだく愛まで。これが、不寛容で要求がましい神がいだく、嫉妬深く怒りっぽい愛にとってかわられた。劣るものに容赦なく、いいかげんな者を許さず、どんな反抗もみのがさない神だ。限りない愛を経験し、おだやかに自然の法則にしたがう楽しげな女神の微笑みが、あまり楽しくはない神の厳しい面差しにとってかわられた。自然の法則すら凌駕すると宣言し、どこまでいっても愛に制約を加える神だ。
これが、現在あなたがたが崇める神であり、こうしていまのような事態になったのだ。
驚きました。すごくおもしろいし、意外な話です。でも、なぜそんなことを教えてくださるんですか。
すべて、あなたがたが創り出したのだと知っておいたほうがいい。「力は正義なり」という考え方、「力あるものが強者だ」という考え方は男性が創り出した神話のなかで生まれたものなのだよ。
怒りっぽく嫉妬深い神は、想像上の産物だ。だが、あまりに長く想像しつづけたので、実態をもちはじめた。現在でも、あなたがたの一部はそれが真実だと思っている。しかし、それは究極の真実とは何の関係もないし、いまほんとうに起こっていることとも無関係だ。
ほんとうに起こっていることとは、何ですか?
ほんとうは、あなたがたの魂は想像できるかぎりの高い経験をしたいと願っている。そのために地球上にやって来たのだ。経験のなかで自分自身に気づき、自己を実現する(realize,つまりreal,ほんものにする)ために。それから、魂は肉体の喜びを発見した。セックスだけでなく、あらゆるかたちの喜びだ、喜びにひたりきった魂は、徐々に霊(いのち)の喜びを忘れていった。
霊の喜びも喜びなのだ。肉体が与えてくれるどんな喜びよりも大きな喜びだ。だが、魂はそれを忘れた。
わかりました。で、歴史から離れて、ちょっと前のお話に戻りたいんですが。
それでも、歴史から離れることにはならないがね。いいかね、ほんとうは、じつに単純なんだ。
魂の目的、つまり魂が身体に宿った理由は、ほんとうの自分になり、それを表現することだ。魂は自分を知り、自分を経験したいと願っている。
この知りたいという願いが、存在しようとする生命だ。表現することを選んだ神だ。あなたがたの歴史にある神は、ほんとうの神ではない。そこが大事なのだよ。あなたがたの魂は、わたしが自分を表現し、経験するための道具なのだ。
それじゃ、あなたの経験はずいぶん限られたものになりはしませんか?
そうなるね。ただし、そうならなければべつだ。あなたがたしだいだな。どのレベルの表現になり、経験になるかは、あなたがたが選択する。偉大な表現を選んだひとたちもいる。イエス・キリストよりも高いレベルの者はいなかったが、しかし同じように高いレベルの人たちはほかにもいる。
キリストが最高の例じゃないんですか? 彼は聖者じゃないんですか?
キリストは最高の例だよ。キリストは聖者だ。だが、聖者は彼だけじゃない。すべてのひとは「聖者(God made Man = 神につくられたひと)」だ。あなたはわたしであり、いまのままで、わたしを表現している。だからといって、わたしを制限し、限りがある者にしていると心配する必要はない。わたしはいまも昔も限りない。わたしが選んだのがあなただけだと思うかな? あなただけが、わたしが自分のエッセンスを吹きこんだ生き物だと思うかね?
いいかな、わたしはすべての花であり、虹であり、空の星であり、すべての星をめぐるすべての惑星上のすべてだ。わたしは風のささやきであり、太陽の温かさであり、それぞれが信じられないほど個性的でしかもこのうえなく完璧な雪の結晶のひとつひとつだ。わたしは天空高く飛翔する威厳あるワシであり、野原の無邪気なハトであり、勇敢なライオンであり、古代人の智恵だ。
それに、地球上に見られるかたちに限られているわけでもない。あなたがたは、ほんとうのわたしを知らない。ただ、知っていると思うだけだ。しかし、わたしがあなたがただけに限られていると思ってはいけない。神としてのわたしのエッセンス、最も神聖なる霊(いのち)があなたがただけに与えられていると思ってもいけない。それは傲慢な間違った考え方だ。
わたしはすべてに存在する。わたしはすべてだ。すべてはわたしの表現だ。「全」、それがわたしだ。
わたしでないものは何もないし、わたしでないものは、ありえない。祝福される生き物としてあなたがたを創造したのは、あなたがたを通して自分自身の経験の創造者であるわたしを体験するためだ。
そこのところは、わからないひともいるでしょう。わかるように、説明してください。
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