「神との対話1」第2章から一部抜粋(著作権への配慮のため)

小さな魂

── かつて、自らが光であることを知っている魂があった。これは新しい魂だったから、体験したくてならなかった。「わたしは光だ」とそれは言った。「わたしは光だ」。だが、いくら知っていても、いくら口に出してみても、体験に変えることはできない。この魂が生まれた領域では、光しかなかった。どの魂も偉大で、どの魂もすばらしく、どの魂もわたしの神々しい光を受けて輝いていた。そこでは、その小さな魂は、まるで太陽の前のロウソクのようだった。偉大な光のなかでは、その光の一部である魂は自らを見ることができないし、自分が何者であるかも体験できない。
その魂は自分自身を知りたくて知りたくてたまらなくなった。あまりに知りたがるので、ある日、わたしは言った。
「小さいものよ、その望みをかなえるにはどうすればいいか、わかるか?」
「どうすればいいのですか、神さま?わたしは何でもします!」、小さな魂は答えた。
「おまえはわたしたちから離れなければならない」とわたしは言った。「そうして、闇を求めなければならない」。
「闇というのは何ですか、聖なるかた?」と小さな魂はたずねた。
「それは、おまえではないものだ」とわたしは答え、その魂は理解した。
そこで、その魂は全体から離れ、べつの領域に行った。その領域では、魂はあらゆる闇を体験する力をもっていた。そして、闇を体験した。
その闇のさなかで、魂は叫んだ。「父よ、父よ、どうして、あなたはわたしを見捨てたのですか?」。

たとえば、あなたがたが暗闇にいるときのように。だが、わたしは一度もあなたがたを見捨てたことはない。つねにそばにいて、ほんとうは何者であるかを思い出させようとしているし、いつも、わが家に呼び戻そうとしている。
だから、闇のなかの光になりなさい。そして、闇のなかにいることを呪ってはいけない。
また、まわりが自分と違うものばかりでも、自分が何者であるかを忘れてはいけない。そして創造物をほめたたえなさい。たとえ、それを変えたいと思っても。
最も大きな試練が、最も偉大な勝利になる可能性がある。あなたが生み出す体験は、自分が何者であるか、そして何者になりたいかという宣言なのだから。
小さな魂と太陽のたとえ話をしたのは、どうしていまのような世界になったのかを理解させるため、
そして、誰もが現実の奥に秘められた神聖な真理を思い出せば、その瞬間に世界は変わりうることを、もっとよく理解させるためだ。

それでは、わたしたちの身に悪いことが起こるのは、自分が選んだからなのですか?世界の災厄や災害も、どこかのレベルでは、「真のわたしたちとは正反対の在り方を体験する」ことができるようにと、自分が創り出したものだとおっしゃるのですか?そうだとすれば、自分を体験する機会を創造するのに、誰にとっても、もっと苦痛の少ない方法はないのでしょうか。

あなたはいくつもたずねた。みんないい質問だ。ひとつずつとりあげていこう。
あなたがたの身に起こる悪い(あなたがたがそう呼ぶのだが)ことのすべてが、あなたがた自身の選択の結果だというわけではない。あなたがたが意識的に選んだものではない、という意味だ。本質的には、すべてはあなたがた自身から生まれているのだから。
あなたがたはつねに、創造のプロセスにある。創造がどんなふうに行われるかについては、またあとで話そう。いまは、わたしの言葉をそのまま聞いておきなさい。
あなたがたは大きな創造の機械であって、考えるのと同じ速さで新しいことを出現させている。
出来事、事件、条件、環境、すべては意識から創造される。個々の意識はそれほど力強いものだ。二人あるいはそれ以上の数のひとたちが、わたしの名において集まったら、どんなに大きな創造的エネルギーが放出されるか、想像できるだろう。それでは集団意識ならどうか。集団意識は全世界に広がり、全地球的な結果をもたらす出来事や環境を創造するほど大きな力がある。
あなたがたの考え方からすれば、そうした結果をあなたがたが選んだわけではない。わたしが選んだのでもないし、あなたがたが選んだのでもない。わたしと同じで、あなたがたはそれらを見ている。そして、それとの関係で自分は何者であるかを決める。
世界には犠牲者もなければ、悪人もいない。誰も、他者の選択の犠牲者ではない。ところがあるレベルでは、あなたがたはみんなで唾棄するものを創り出している。創り出したということは、それを選んだということだ。
これは進んだレベルの思考だ。すべての〈マスター〉は遅かれ早かれ、このレベルに到達する。すべての責任を引き受けたときにはじめて力を得て、ほんの一部でも「変える」ことができるようになる。「こんな目にあう」のは、何か、あるいは誰かのせいだと考えている限り、どうすることもできない。「わたしの責任だ」と言ったときはじめて、それを変えられる。
自分がしていることを変えるほうが、他者がしていることを変えるよりずっと容易だ。
何ごとであれ、それを変える第一歩は、選んだのは自分だと認め、受け入れることだ。個人として責任があると思えなければ、わたしたちはすべて一体であるという理解を通じて、認めなさい。それから、間違っているからではなく、ほんとうの自分にふさわしくないからという理由で、変化させる努力をしなさい。
何かをする理由は、ひとつしかない。宇宙に向かって、自分が何者であるかを示すことである。
そうすれば、人生は自己の創造になる。あなたがたは人生を使って、真の自分、こうありたいと願ってきた自分を創造する。また、ある行動を拒否する理由もひとつしかない。それが自分にふさわしくなくなった、という理由だ。その行為が、あなたがたの真の姿を表さない(representしない、つまりふたたび存在させない:representしない)からである。
正しい自分を示したいと願うなら、永遠のなかに映し出したいと思う自分にふさわしくないものはすべて、変えていくよう努めなければならない。
大きな意味では、「悪い」ことはすべて、あなたがたの選択の結果として起こっている。間違いは、それを選んだことではなくて、それを悪と呼ぶことである。それを悪と呼べば、自分を悪と呼ぶことになる。創造したのはあなたがただから。
あなたがたは、この悪というレッテルを受け入れられない。だから、自分に悪というレッテルを貼るよりも、自分自身の創造物を捨てる。この知的な不誠実さで心を偽り、あなたがたはいまのような世界を受け入れている。あなたがたが、個人として世界への責任を認めていれば──あるいは、心の底から責任を感じていれば──世界はまったく違った場所になっていたはずだ。みんなが責任を感じさえすれば、世界は変わっていた。それがわかっているからこそ、痛ましいし、皮肉なのだ。
世界の天災や災害──竜巻やハリケーン、火山の噴火、洪水──つまり、物理的な大変動そのものは、あなたがたが創造しているのではない。あなたがたが創造しているのは、こうした出来事がひとびとの人生に及ぼす影響の度合いである。
宇宙では、どう考えてもあなたがたが引き起こしたとか、創造したとか言えないことも起こっている。これらの出来事は、人間の意識の集積によって創造される。全世界が共同してこれらの経験を生じさせている。ひとりひとりは、そうした出来事のなかを動きまわり、自分にとってどんな意味を(意味があるとして)もっているのか、そうした出来事と向かいあったとき、自分は何者であるのかを決定する。
あなたがたは集団として、また個人として、魂の発達という目的に向かって、自分たちの人生と時を創造している。
あなたは、もっと苦痛の少ないプロセスはないのか、とたずねた。答えはイエスだ。しかし表面的な経験には何も変化はないだろう。地上の経験や出来事に感じる苦痛を──自分の苦痛も他者の苦痛も──減らすには、受けとめ方を変えればいい。
あなたがたは、外部の出来事を変えることはできない(出来事は多数によって創造されており、集団的に創造されたものを個人が変更できるほど、あなたがたの意識は成長していない)。だから、内的な経験を変えるしかない。これが、生きることの王道である。
どんなことでも、それ自体は苦痛ではない。苦痛は誤った思考から生まれる。考え方が間違っているのだ。
〈マスター〉はどんなに悲痛な苦しみも消すことができる。それによって、ひとを癒す。
ものごとを勝手に決めつけるから、苦しむのだ。決めつけるのをやめれば、苦痛はなくなる。決めつけるのはそれまでの経験のせいだ。ものごとに対する考えは、過去の考えから生まれる。過去の考えはさらにその前の考えの結果である。そしてその考えはまたさらに過去の考えから生まれるというふうに、まるで積みあげたレンガのように続く。この鏡の廊下をずっとたどっていくと、わたしが「最初の考え」と呼ぶものに行き着く。
すべての思考は創造につながるし、根源的な思考ほど力強い思考はない。だからこそ、その根源的な思考はしばしば「原罪」と呼ばれる。ものごとについての最初の考えが間違っていた、それが原罪である。この間違いは、第二、第三の考えをいだくときに、何度も積み重ねられる。この過ちからあなたがたを解放するために新しい理解を吹きこむこと、それが聖霊の役目だ。

それでは、アフリカで子供たちが飢え、アメリカでは暴力や不正がはびこり、ブラジルでは地震でおおぜいのひとが死んでいることを、悪と感じるなとおっしゃるのですか?

神の世界では、何なにを「せよ」とか「してはならない」とは言わない。したいことをしなさい。
より大きな自己の姿にかなっていることを考え、行いなさい。悪だと感じたいなら、悪と感じなさい。だが、一方的に決めつけたり、非難したりしないほうがいい。なぜ起こるか、何のために起こるか、あなたがたには理解できないのだから。
それに非難したら、その相手に非難されるし、一方的に決めつけたら、いつかは自分が決めつけられる側になる。
それよりも、真の自分の姿を反映しなくなったことがらを変えるように──あるいは、変えようとしているひとたちに味方するように努力しなさい。
また、すべてを祝福しなさい──すべては神が人生を通じて行う創造の行為であり、それこそが最高の創造なのだから。

ついていけなくなってきたので、ちょっと待ってもらえますか?神の世界では「せよ」とか「してはならない」ということはない、そうおっしゃったのですか?

そのとおり。

どうしてですか?あなたの世界にないなら、どこの世界にあるんでしょうか?どこの世界……?もう一度、お聞きします。あなたの世界にないなら、どこの世界に「せよ」とか「してはならない」ということがあるんでしょうか?

あなたがたの想像のなかに。

でも、正邪、善悪、すべきことと、してはならないことを教えてくれたひとたちはみんな、それがあなたに、つまり神によって定められた規則だと言いましたよ。

あなたがたを教えたひとたちが間違っているのだ。わたしは正邪も善悪も決めたことはない。そんなことをしたら、あなたがたへの最高の贈り物がだいなしになる。したいことをして、その結果を体験するという機会をあなたがたから奪うことになる。自らを真の自分のイメージになぞらえて創造しなおす機会を奪うことになる。偉大な考えをもとに、よりすぐれた自分を創り出す能力を発揮する場所を奪うことになる。
あることが──考えでも言葉でも行為でも──「間違っている」というのは、それをするなと禁じるのと同じだ。禁じるというのは制約するということだ。制約するというのは、真のあなたがたを否定することであり、あなたがたが真の自分を創造し、経験する機会を否定することだ。
あなたがたは自由な意思を与えられたと言うひとたちが、つぎには、わたしに従わなければ地獄に落とされるだろうと言う。それでは自由な意思はどうなるのか?それでは神を愚弄することになりはしないか。

それに関連して、もうひとつ、べつのことについてうかがいたいのですが。天国と地獄についてです。ここで聞いたことから考えると、天国も地獄もないのでしょうか。

地獄はあるが、あなたがたが思っているようなものではないし、あなたがたが教えられたような理由で地獄を経験するのでもない。

地獄とは何ですか?

それは、あなたがたの選択、決定、創造の最悪の結果を体験することだ。わたしを否定する考え、あるいはあなたがた自身の真の姿を否定する考えから生まれる、当然の結果である。
地獄とは、間違った考え方から受ける苦しみだ。だが、「間違った考え方」という言葉も正しくない。なぜなら、間違った考え方や正しい考え方という区別はないからだ。地獄とは喜びの対極である。満たされないこと。自分が何者かを知っていながら、それを体験できないこと。本来の姿にくらべて卑小な在り方。それが地獄であり、あなたがたの魂にとって、それよりもつらいことはない



「神との対話3」21章から一部抜粋 「小さな魂 続編」

大きな計画とは、何ですか?

一冊めの対話のなかの、小さな魂と太陽のたとえ話を覚えているかな?はい。あれには続きがあるんだよ。
こうだ。

──「どんな神の一部になるか、好きなものを選んでいいよ」とわたしは小さな魂に言った。
「あなたは絶対的な神性で、自らを経験する。神性のどんな部分を、自分として経験したいかな?」
「自分で選んでいいんですか?」小さな魂はたずねた。わたしは答えた。「そう。自分のなかで、自分として、自分を通して、神性のどんな部分を体験するか、選んでいいよ」
「わかりました」と小さな魂は言った。「それじゃ、わたしは赦しを選びます。神のなかで、完璧な赦しという部分を体験したいんです」
さて、想像がつくだろうが、これは少々やっかいな問題を生んだ。誰も赦すべき相手がいなかったのだ。創造されたものはすべて完璧であり、愛だったから。
「赦す相手がいないんですか?」小さな魂はまさかという調子でたずねた。
「誰もいない」とわたしはくり返した。「まわりを見まわしてごらん。あなたよりも完璧でない魂、すばらしくない魂が見えるかな?」
そこで、小さな魂はくるりと見まわして、自分が天のすべての魂にとりまかれているのに気づいて驚いた。魂たちは、王国のはるか彼方から集まってきていた。小さな魂が、とてつもない神との対話をすると聞いてやって来たのだ。
「わたしより完璧でない魂は見つかりません!」小さな魂は叫んだ。「それじゃ、誰を赦したらいいんでしょうか?」
そのときひとつの魂が群衆のなかから進み出た。「わたしを赦せばいい」と、その友好的な魂は言った。「何を赦すんですか?」小さな魂はたずねた。
「あなたのつぎの物質的な人生に出かけていって、何かをするから、それをあなたが赦せばいい」友好的な魂は答えた。
「だが、何を? これほど完璧な光であるあなたに、わたしが赦したいと思うようなことができますか?」小さな魂は知りたがった。
「だいじょうぶ」友好的な魂は微笑んだ。「きっと、何か考えつくから」
「しかし、どうしてそんなことをしてくれるんですか?」小さな魂は、これほど完璧な存在が「悪い」ことをするために、わざわざ振動をスローダウンさせようとするのはなぜなのか、はかりかねた。
「簡単だよ」友好的な魂は説明した。「あなたを愛しているからするんだ。あなたは赦しとして、自己を体験したい、そうなんだろう?それにあなただって、同じことをしてくれたじゃないか」
「わたしが?」小さな魂はたずねた。
「そうだとも。覚えていないのかい?あなたもわたしも、みんなその一部だ。わたしたちはそのなかの上昇で下降、左で右だった。ここでありあそこ、いまであり過去だった。大で小、善で悪だった。わたしたちはみな、その一部だったんだよ。そんなふうにして、それぞれが神の最も偉大な部分を体験しようとみんなで決めているんだ。わたしたちにはわかっているからね……。あなたでないものが存在しなければ、あなたもまた存在しない。
『寒』がなければ、『暖』もありえない。『悲しみ』がなければ、『幸福』もない。『悪』と呼ばれるものがなければ、『善』と呼ばれる体験もありえない。あなたがあることを選ぶためには、それと反対の何かあるいは誰かが、宇宙のどこかに現れないといけない」
友好的な魂はそれから、そういうひとたちは神のとくべつの天使であり、そういう状態は神の贈り物なのだ、と説明した。
「かわりに頼みたいことは、ただひとつだ」と友好的な魂は言った。
「何でもします!何でも!」小さな魂は叫んだ。神の神聖な側面のすべてを経験できるのだと知って、彼はわくわくしていた。やっと『計画』が理解できたのだ。
「わたしがあなたを襲い、暴力をふるうとき、想像しうるかぎり最悪のことをするとき──その瞬間に──ほんとうのわたしを思い出してほしい」
「忘れませんとも!」小さな魂は約束した。「いまと同じように、完璧なあなたを見ます。ほんとうのあなたを、いつも思い出します」

それは……すばらしい物語ですね。信じられないようなお話だ。

小さな魂の約束は、あなたへのわたしの約束だ。それは変わらない。だが、小さな魂よ、あなたはほかの者への約束を守ったかな?

いいえ。悲しいことですが、守っていません。

悲しがることはない。真実に気づいたことを喜び、新しい真実に生きようとする決意を楽しみなさい。神は進行中の働きであり、あなたもそうだ。それから、このことをいつも思い出しなさい。神があなたを見る目で自分を見れば、微笑みたくてたまらなくなるだろう。
だから、出発しなさい。そしてお互いにほんとうの姿を見るのだ。観察だよ。観察、観察すること。前にも言ったが……あなたと高度に進化した存在の大きなちがいは、彼らがもっと観察することだ。あなたも進化のスピードを速めたいのなら、もっともっと観察することだ。

それ自体が、すばらしい観察なんですね。

それから、自分自身を出来事として観察しなさい。あなたがたは人間であり、存在だ。あなたがたはプロセスだ。それぞれの「瞬間」のプロセスの産物、それがあなたがただ。
あなたがたは創造者であり、被造物だ。このことは、ともにいたここしばらくのあいだに、何度もくり返したね。あなたが耳を傾け、理解するようにとくり返したのだ。さて、あなたとわたし、このプロセスは永遠だ。過去も、現在も、将来も起こりつづける。「自動的に」起こる。そのままにしておけば、完璧なかたちで起こりつづける。
ウェルナー・エアハルトがこんな言い方をしている──生命はそれ自身のプロセスで解決する──と。霊的な運動のなかには、これを「あるがままに、神におまかせする」ことだと理解しているものもある。これも、なかなか良い理解だ。あるがままにまかせれば、自分というじゃま者をその「道」からとり除くことができる。「道」とはプロセスだ。それは、生命と呼ばれる。だから、すべての〈マスター〉が言ったのだよ。「わたしは道であり、生命である」と。彼らは、わたしがここで言ったことを完璧に理解していた。彼らは生命であり、道だった。進行中の出来事、プロセスだった。
すべての智恵が教えているのは、プロセスを信頼しなさいということだ。それは神への信頼でもある。
あるいは、自分自身を信頼すること、と言ってもいい。あなたは神だから。
思い出しなさい。わたしたちはすべて一体なのだ。

だが「プロセス」が──生命が──いやなことばかりもってくるとき、どうして「プロセスを信頼」できますか?

生命がもってくるものを好きになりなさい!
それをもたらしているのは、自分自身であることを理解しなさい。
完璧性を見なさい。
あなたが完璧だと思うものだけでなく、すべてに完璧性を見なさい。この三部作で、わたしはものごとが、なぜ、どんなふうに起こるかをていねいに説明してあげた。ここで読み返さなくてもいいが、完全に理解できるまで、何度も読みなおすと役に立つよ。

お願いです。もう一度だけ、おさらいしてくださいませんか。どうすれば、完璧だと思えない体験に「完璧性」を見ることができるんですか?

誰もあなたの体験を創造できるものはいない。
他者は、あなたの人生の外的な状況や、共通の出来事をあなたと一緒に創り出すことはできる。だが、どんなことでもあなたが選択しない体験をさせることは、誰にもできない。その意味で、あなたは至高の存在だ。そして誰も、誰ひとり、あなたに「こういう存在になりなさい」と言うことはできない。
世界はある状況を与えることはできるが、その状況が何を意味するのかを決めるのはあなた自身だ。
ずっと前に教えてあげた真実を思い出してごらん。重要なもの(物体:matters)は何もない。
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