戦争について

戦争について

戦争は何故起こり、
なぜいつまでもなくならない
というかたに、読むことをお勧めします。

ニール・ドナルド・ウォルシュ著 「神との対話2」第三章 から一部引用

自分の短所だの過ちだの、悪いところがみんな見えているのに、どうして偉大だなんて思えますか?

いいかね、悪というものはないのだよ!

そうだといいんですが。

あなたがたは完璧だ。あるがままで。

それも、そうだといいと思いますよ。

しかし、それが真実だよ!苗木だから完璧ではないということじゃない。幼い子供も大人と同じように完璧だ。完璧そのものだ。彼らは自分の完璧さを損なうことなど、何もできないし、知らないのだから。子供は過ちをおかす。立ち上がり、よちよち歩きをし、転ぶ。また立ち上がり、よろよろと歩き、ママの足にしがみつく。だからといって、子供が完璧ではないということになるかな?
とんでもない、その逆だよ!子供は完璧そのものだ。欠けることのない、ほめたたえるべき完全な存在だ。そして、あなたもそうなのだ。

でも、子供は何も悪いことをしないでしょう!意識的に逆らったり、人を傷つけたり、自分を傷つけたりしませんよ。

子供には「正しい」と「悪い」の区別がつかない。

そのとおりです。

そして、あなたもだ。

でも、わたしにはつきますよ。人殺しは悪いことだし、愛するのは正しいことだ。人を傷つけるのは悪いことだし、癒し、改善するのは正しいことです。自分のものでないものをとるのは悪いことだし、ひとを利用したり、不正直だったりするのも悪いことです。

その「悪い」ことがみな、正しくなる例をいくらでも見せてあげられるよ。

また、ふざけてるんですね。

とんでもない。事実を指摘しただけだ。

どんなルールにも例外がある、とおっしゃりたいのなら、それはそのとおりですが。

例外があるなら、ルールではないな。

それじゃ人殺しは悪くない、傷つけたり、人のものをとるのは悪くないとおっしゃるんですか?

それは、あなたが何をしようとしているかによるだろう。

オーケー、わかりましたよ。だけど、だからって、人殺しや傷害が良いことにはなりませんよ。ときには、良い目的のために、悪いことをしなければならないこともありますが。

それは、結局、「悪いこと」じゃない。そうではないか?それは目的のための手段にすぎない。

目的のためには、どんな手段も正当化されるとおっしゃるんですか?

あなたはどう思う?

そんなことはない。絶対にありませんよ。

それなら、そうだろう。あなたはいま、ルールをつくりあげている。まずそれはわかるかね?それでまったくかまわないのだ。それがわかるかな?あなたはそうすべきだからだよ!
人生とは、自分が何者であるかを決め、それを体験するプロセスだ。あなたは視野をひろげながら、そこに当てはめるべき新しいルールをつくる!自分についての考えをひろげながら、新しい正邪や、イエスとノーでそれを囲む。それは、あなたが押しこんでおけない何かを「押しこんでおく」境界なのだ。
あなたは「自分」を押しこんではおけない。なぜなら、あなたは宇宙と同じく、限りないものだから。だが、あなたは限りない、際限のない自分自身について想像をめぐらし、何らかの概念をつくりあげ、それから境界を受け入れる。自分をふくめて何かを知るためには、ある意味ではその方法しかない。際限がないものは際限がない。無限は無限だ。それはどこにでもあるから、どこにも存在しえない。
あらゆるところにあるから、どんな特定の場所にもない。
神はあらゆるところにあるから、どんな特定の場所にもない。
神はどこにでも存在する。だから、特定のどこにも存在しない。どこかに在るということは、他の場所にはないということだから。それは、神には不可能なのだよ。
神にとって「不可能」なことが、ただひとつある。それは、神でなくなることだ。神は「神でない」ことはできない。それに、自分らしくない存在にもなれない。神が「神らしくない」ことはできないのだよ。わたしはあらゆるところにいる。それしかない。そして、あらゆるところにいるから、どこにもいない。わたしがどこにもいない(nowhere)としたら、わたしはどこにいるか?いまここに(now here)いる。

うまい! 一冊めでもありましたが、いいですよ。とっても好きだなあ、そういうの!では、どうぞ、先をお続けください。


それはどうも。それで、少しはわかってきたかな?自分とは何者かを決めるために「正しい」ことと「悪い」ことをつくりあげているのだということが、理解できたかね?そうした定義、つまり境界なしには、あなたは何者でもなくなる、それがわかるかな?
それに、わたしと同じで、あなたの場合も、自分とは何者かという考えが変化し、それにつれて境界も変化していることがわかるかね?

おっしゃることは、わかるような気がします。でも、境界を 自分個人の境界ってことですが 変えているとは思えないんですが。どんなときも、ひとを殺すのは悪いことだし、盗むのも悪いことです。ひとを傷つけるのも悪いことですよね。わたしたちが自分を律している最大の概念というのは、時のはじめからあって、人間のほとんどはそれに同意しているんじゃないでしようか。


それじゃ、どうして戦争がある?

それは、ルールを破る人間はいつでもいるからでしょう。どんな樽にも、腐ったリンゴがあるってことじゃないかな。


わたしがこれから言うことはとても理解しにくい、受け入れにくいと思うかもしれない.あなたがたのいまの思考システムで、真実とされていることと矛盾するからだ。
だが、あなたがたがいまのシステムのままで生きていくなら、この対話は役立たない。だからこの2冊目の本では、そういう概念と真っ向からぶつかっていかなければならない。しばらくは悪戦苦闘が続くだろうな。さあ、用意はいいかね?

ええ、そのつもりです。警告していただいて、感謝しますよ。でも、そんな理解しにくくて、受け入れがたいというのは、どんなことなんでしょうか?


「腐ったリンゴ」などというものはない、ということだよ。あるのは、あなたの考え方とはちがう考え方をするひと、ちがう世界のモデルをつくりあげているひとだけだ。
いいかね、どんな者でも、自分なりの世界モデルにてらせば、何も間違ったことはしていない。

それじゃ、その「モデル」が間違ってるんじゃないですか。何が正しくて、何が間違っているか、わたしにはわかっていますよ。それがわからないひとがいるからって、わかっているわたしの頭がおかしいってことにはならないでしょう。おかしいのは、向こうのほうですよ!


残念ながら、まさにそういう考え方が戦争を引き起こすのだよ。

わかってます、わかってますよ。わざと言ったんです。みんなが言うことを、まねしただけです。
でも、そういうひとたちには、どう答えればいいでしょう? どんな答えかたがありますか?


正邪に対するひとの考え方は、文化によって、時代によって、宗教によって、地域によって、
・・・それどころか家庭によって、ひとりひとりの個人によって・・・いくらでも変わるし、変わってきたと言えばいい。ある時代におおぜいのひとが「正しい」と考えたことが、たとえば魔女だと思ったひとを火あぶりにするといったことが、現在は「間違っている」とされる。
「正邪」の定義は時代ばかりでなく、単純に地理にも左右される。地球上の活動のあるもの(たとえば売春)はある場所では違法行為だが、ほんの数マイル離れたら合法行為になるではないか。誰かが「間違った」ことをしたかどうかは、行為そのものではなくて、どこでしたかによって判定される。
さて、そんなはずはない、理解できない、と言うひとがいるのはよく知っているがね。
ヒトラーは天国へ行ったのだよ。

そういう考え方は、受け入れられるかなあ。

この本の目的、三部作のすべての目的は、新しいパラダイム、新しい理解、大きな視野、偉大な考え方を受け入れる準備を整えることなのだ。

それでは、きっとおおぜいのひとが考え、聞きたがっている質問をさせてください。
どうして、ヒトラーのような人間が天国に行けるんですか?世界中のどんな宗教だって・・・どんなひとだって、彼は有罪だと宣言して、地獄に送るに決まっています。

第一に、彼は地獄へは行けない。地獄というものがないからだ。だから、彼が行けるのは一ヶ所しかない。そこで問題が起こる。ほんとうの問題は、ヒトラーの行動が「悪」かどうかということだ。ところが、わたしは、宇宙には「正」も「悪」もないとくり返して言っている。ものごと自体が正であったり、悪であったりすることはない。ものごとはものごと、それだけだ。
さて、ヒトラーは怪物だと考えるのは、彼が何百万人もの人びとを殺せと命じたからだろう?

もちろん、そうです。


では、あなたがたが「死」と呼ぶものが、じつは誰にとっても最高の出来事だと言ったらどうかな?

とても、そうは思えません。


あなたは、地上での暮らしのほうが天国での命よりも良いものだと思っているのか?いいかね、死の瞬間にあなたは、かつて味わった最大の自由、最大の平安、最大の喜び、最大の愛を知るだろう。
それでも、イバラの藪にウサギどんを放りこんだキツネどんを責めるかな?

でも、たとえ死後にどんなすばらしい天国での命が待っていようと、当人の意思に反してこの世の人生を絶たれるべきじゃない、その事実を無視していらっしゃいますよ。
わたしたちは、何かをなしとげ、経験し、学ぶためにここに来た。狂った考えの犯罪者が、その人生を中断する権利はないでしょう。


第一に、あなたがたは、ここに何かを学びに来たわけではない。(一冊目の対話を読んでごらん!)。
人生は学校ではないし、ここでのあなたがたの目的は、学ぶことではなくて思い出すことだ。それに、人生はいろいろなことで、「中断」されるよ・・・・台風、地震、災害・・・・。

それは、話がべつですよ。おっしゃるのは、神の業(わざ)ではありませんか。


すべては、神の業(わざ)だよ。
わたしが望まなければ、どんなことも起こりえないとは思わないか? わたしの意に逆らおうとしても小指一本、上げられないとは思わないか? わたしの意に逆らってはどんなこともできないのだよ。
それはともかくとして、「間違った」死という考え方について、一緒に探ってみようか。病気で人生が中断されたら、それは、「間違っている」だろうか?

「間違っている」という言葉は、ふさわしくないでしょう。病気で死ぬのは、自然なことですから。
ヒトラーのような人間が殺人を犯すのとは、わけがちがいます。


それでは、事故は? 愚かしい事故は?

同じことです。運が悪いし、悲劇でしょうが、それも神の意志です。わたしたちには神の心をのぞくことはできないし、なぜ、そういうことが起こるのかわからない。知ろうとすべきではないんです。だって、神の意志は不変で、不可知ですから。聖なる謎を解こうとするのは、人智を超えた知識に対する欲望です。罪深いことです。


どうして、わかる?

だって、そういうことを理解させたいと神が望んでおられるなら、理解できるはずでしょう。理解していない、できないという事実が、神が理解させようという意志をもっておられない証拠です。


なるほど。あなたが理解できないという事実が、神の意志の証拠か。それが起こったという事実は、神の意志の証拠ではないわけだね。ふうん・・・・。

どうも、あんまりうまく説明できなかったようですけど、でも、自分が何を信じているかは、わかっているんです。


では、神の意志を信じるかな。 神は全能だと信じるか?

はい。

だが、ヒトラーに関することだけはちがうわけだ。あれは、神の意志ではなかった。

ええ。


どうして、そんなことになるのかな?

ヒトラーは神の意志を踏みにじったんですよ。


わたしが全能なのに、どうしてそんなことが起こったのだろう?

それは、彼の行動を放置しておいたからでしょう。


わたしが放置したのなら、それがわたしの意思だろう。

うーん、そのようですね・・・・。でも、あなたがそんな意志をもつなんて、いったいどんな理由が考 えられますか? 考えられないですよ。いや、彼に自由な選択をさせる、それがあなたの意志だった。 そうじゃないですか。彼は自分の意志で行動したんです。

うん、なかなか近いところをついている。非常に近いよ。
もちろん、あなたの言うとおりだ。ヒトラーは  誰もがそうだが  自由に選択することができる。そして、わたしが望む選択をしなかったからといって、そのひとを未来永劫に罰するという意志をわたしはもっていない。もし、そうだとしたら、どうして「自由」な選択ができるだろう? わたしの望みに反したら、言語に絶する苦しみを味わうとわかっていたら、あなたは自分のしたいようにできるかね? それが自由な選択と言えるだろうか?

罰せられるということではないでしょう。たんなる自然の法則ですよ。因果(カルマ)の問題だ。

あなたは神学の組み立て方をじつによく勉強したようだね。それで、わたしを復讐の神だと考え、
しかも、その責任をわたしに負わさないと言う工夫ができるらしい。
だが、その自然の法則を創ったのは誰だろう?自然の法則を定めたのもわたしだとしたら、どうしてわたしは自然の法則を創り  つぎに、自然の法則を超える力をあなたがたに与えたんだろうね?あなたがたが自然の法則に影響されないことを望んだとしたら  わたしが生み出したすばらしい存在が、決して苦しまないようにというのがわたしの意志だとしたら  どうして、わたしはあなたがたが苦しむ可能性を残したりしたのか。それに、どうしてあなたがたを昼も夜も誘惑し、わたしが創り出した法則を破らせようとしたりするのだろう?

誘惑するのは、あなたではない。悪魔です。

そら、またわたしには責任を負わせまいとしている。
あなたの神学を合理化する唯一の方法は、わたしを無力な神にすることだ。そこがわかっているのかな? あなたの論理の筋を通そうとしたら、わたしの論理には筋が通っていないというしかない、それがわかっているのかね。 あなたはほんとうに、神は自分が創り出した存在の行動を、コントロールする力がないと思っているのかな?

あなたが悪魔をコントロールできないとは言っていません。もちろんあなたは、すべてをコントロールできる。だって、神ですよ! ただ、あなたはそうしないんだ。あなたは、悪魔にわたしたちを誘惑させて、わたしたちの魂を奪おうとさせているのです。


しかし、何のために? あなたがたが神のもとへ戻ることを望んでいるとしたら、どうしててわたしは、そんなことをするんだろう?

それは、ほかに道がないから行くのではなく、わたしたちが自ら選択して、神のもとへ行くことを望んでいらっしゃるからです。あなたは天国と地獄を創り出し、選択できるようになさった。だから、わたしたちはほかに道がないからその道を進むのではなく、自分で選択して行動できるんです。

どうして、そう考えるのか、よくわかるよ。あなたがたの世界をそんなふうに創ったのはわたしだ。
だから、あなたがたはわたしの世界も同じだろうと考える。
あなたがたの現実では、神は悪なしには存在しえない。だから、わたしの世界もそうなのだろうと、
あなたは思う。
しかし、いいかね。わたしのいるところには「悪」はないし、悪魔もいない。あるのは存在のすべて、それだけだ。すべてはひとつ。そしてその認識と経験だ。わたしの世界は、絶対の世界であって、そこでは、ひとつのものが他との関係によって存在しているのではなく、何ものからも独立して存在している。私の世界は、存在するすべてが愛であるところだ。

そして、わたしたちが地上で考えたり、言ったり、したりすることの結果は何もないんですか?


おやおや、結果はあるだろう。まわりを見てごらん。

わたしが言うのは、死後のことです。

「死」というものはない。生命は永遠に続く。生命はある。ただ、かたちを変えるだけだ。

わかりました。それではかたちが変わったあとに、と言い換えます。

かたちが変わったら、結果も存在しなくなる。ただ、知があるのみだ。結果は、相対性の世界の要素だよ。絶対の世界ではありえない。結果とは、線を描く「時」と「ものごと」の連鎖によって決まるのだから。絶対の世界では、それも存在しない。そこにあるのは平和と喜びと愛、それだけだ。
そこで、あなたがたはついに「良い知らせ  福音」を聞くだろう。「悪魔」は存在しないし、あなたがたはつねに自分が考えたとおりの存在、善であり愛であると知るだろう。自分はそんなものじゃないという思いは外部の狂気の世界の産物で、それがあなたがたを狂気の行動に駆りたてる。審判と非難、そういう外部の世界だ。他者があなたに審判をくだし、その審判にしたがってあなたは自分に審判をくだす。そこで、あなたがたは、今度は神に審判してほしいと願う。だが、わたしは審判をくださない。あなたがたは人間のように行動しない神を理解できない、そこで途方に暮れる。
あなたがたの神学は、自らをもういちど発見しようという試みだよ。

わたしたちが信じているのは狂気の神学だとおっしゃる  だが、報酬と懲罰というシステムのない神学なんて、ありえるのでしょうか?


すべてはあなたがたが人生の目的をどう見るか、つまり神学の基礎をどこにおくかによって決まる。人生はテストだ、試練だ、自分が「価値ある存在」かどうかを知ろうと試みる期間だと考えれば、あなたがたの神学は筋が通る。だが、人生は機会であり、自分に(いまも、これまでも)価値があるということを発見する  思い出す  プロセスだと考えれば、あなたがたの神学はとても、まともとはいえないよ。逆の考え方をして、神は利己的で、関心や賛美、評価、愛を要求する、そして、そのためには殺すことも辞さないと考えれば、あなたがたの神学はつじつまが合うようになる。
神は自我もなければ何かを必要とすることもない、存在するすべての源であり、すべての知識と愛の座であると考えるならば、あなたがたの神学はばらばらに崩れる。
もし、神は復讐心が強く、彼は愛すれば嫉妬し、怒れば荒れ狂うと考えるなら、あなたがたの神学は完璧だ。もし、神は平安だ、彼女は愛すれば喜びに満ち、歓喜すれば恍惚になると考えれば、あなたがたの神学は無益だ。
いいかね、人生の目的は神を喜ばせることではない。人生の目的は、自分とは何ものであるかを知ること、自分を再創造することなのだよ。
自分を知り、再創造すれば、神を喜ばせるし、彼女をほめたたえることになるのだ。

いま、「彼女」とおっしゃいましたね。あなたは女性なのですか?


わたしは「彼」でも「彼女」でもない。あなたのせまくるしい、偏った考え方をゆすってやろうとして、女性代名詞をつかってみただけだ。あなたは、神があるものであるなら、べつの者でないと考える。それが、大きな誤りだ。ヒトラーは天国に行った。地獄というものはないから、ほかに行くところがないのだ。
彼の行動は、あなたがたに言わせれば「過ち」  未発達な者の行動だ。しかし、過ちは非難して罰するべきものではなく、修正するチャンス、発達するチャンスを与えるべきものだ。
ヒトラーが犯した過ちは、彼が死にいたらしめた人びとをなんら害することも、侵すこともなかった。
あの人びとの魂は、地上の束縛から解放された。さなぎがから蝶が解放されるようにね。
残された人々が彼らの死を悼むのは、彼らの魂がどんな喜びへと分け入ったかを知らないからだ。
死を経験したら誰も死を悼んだリはしないよ。
彼らは時ならぬ死をとげたのだから「間違っている」とあなたは言うが、それは、宇宙では起こるべきでないことが起こりうると言っているのと同じだ。だが、わたしが何者で、どのような存在であるかを考えれば、それは不可能だよ。宇宙で起こることはすべて、完璧に起こるべくして起こっている。
神はずいぶん長いあいだ、過ちを犯してはいないのだ。
すべてに完璧さを見るなら  あなたが賛成できることばかりでなく、(とりわけ)賛成できないことでも完璧だと考えるなら  悟りを開いたことになる。

もちろん、それはよくわかります。一冊目の対話でもうかがいました。でも、一冊目を読んでいない読者のために、早いうちに基本的な理解をしてもらうことが大事だと思ったんです。それで、さっきのような質問をさせていただいたんですよ。だが、ここで先に進む前に、もう少し、人類が創り出した複雑な進学についておうかがいしたい。たとえば、子供のころに、おまえは罪びとだ、人間はすべて罪びとで、それはどうしようもないことなんだと教えられました。そんなふうに生まれついているのだって。われわれはみんな、罪のなかへ生まれてくるんです。


非常におもしろい考え方だね。そんなことを誰に教えられたのかな?

アダムとイヴの物語を聞かされたんです。四年生、五年生、六年生の教理問答ではこんなふうに教えられます。  私たちは罪を犯していないかもしれないし、もちろん、赤ん坊は何の罪も犯していないけれど、アダムとイヴは犯した。わたしたちはアダムとイヴの子孫だから、二人の罪、それに罪深い性質を受け継いでいる。
アダムとイヴは禁断の木の実を食べた  神と悪魔を知る知恵を身につけた  から、その子孫もすべて、生まれながらに神から隔てられた。あたしたちはみんな、この「原罪」を魂に負って生まれる。
みんなが罪を分けあっています。わたしたちが選択の自由を与えられた理由もそこにある、つまりアダムやイヴと同じことをして神を裏切るか、それとも「悪事」をするという生まれながらの性格を克服し、世界に誘惑されても正しいことをするかどうか、試されているんじゃないでしょうか。


それで、もし「悪事」をしたら?

そうしたら、あなたが地獄へ送る。そうなんです。わたしたちが悔いあらためないかぎり。


なるほど。

後悔すれば  完璧に悔いあらためれば  地獄には送られませんが、でも、苦しみをすべて逃れられるわけじゃない。煉獄へ行って、罪をきよめなければならないんです。


「煉獄」とやらには、どれくらい滞在しなければならないのかな?

ひとによります。罪を焼ききよめなければならないんですから。あんまり、楽しいことじゃないのは確かですね。罪がたくさんあるほど、焼ききよめるのにも時間がかかるから、長く煉獄にいなければなりません。わたしが教えられたのは、そういうことです。


わかった。

でも、とにかく地獄にいくのとはちがう。地獄は永遠ですから。だって、大罪を犯したまま死ねば、まっすぐ地獄行きです。


大罪?

罪には、小罪と大罪とがあるんです。魂に小罪を負って死んだ場合には、煉獄に行くだけです。大罪だと、そのまま地獄へ直行です。


小罪と大罪には、たとえばどんなものがあるのか、説明してくれないか?

ええ、いいですよ。大罪は、重大な罪です。神学的な重罪、たとえば殺人、レイプ、盗みです。小罪は神学的な過ちでしょうか。日曜日に教会に行かないとか、むかしなら、金曜日に肉を食べたとか。


ちょっと待ってくれないか! あなたがたの神は、金曜日に肉を食べた者を煉獄に送るのかね?

ええ。でも、いまはちがいます。1960年代はじめから、そうではなくなりました。でも、それ以前なら、金曜日に肉を食べると、大変なことになったんです。


ほんとうかい?

ほんとうですとも。


それではどうして、60年代までは「罪」だったものが、もう罪ではなくなったのかな?

法王さまが、もう罪ではないとおっしゃったからです。


なるほど。では、あなたがたの神というのは、強制的に神に礼拝させ、日曜日には無理やり教会へ行かせるのかな? 罰でおどして?

ええ、ミサに欠席するのは罪です。もし懺悔しなければ  魂が罪を背負ったまま死ねば  煉獄へ行かなければなりません。


では子供はどうなる? 神の愛についての、そういった「ルール」を知らない、無垢な幼い子供は?

クリスチャンの洗礼を受けないうちに死んだ子供は、天国と地獄の間にある、リンボーへ行きます。


どこへ?

リンボーです。そこは、懲罰を受ける場所ではないけれど、天国でもないんです。それが、つまり・・・リンボーなんですよ。神とともにいることはできませんが、少なくとも「地獄へ行く」ことはまぬかれます。


どうして無垢な美しい子供が神とともにいられないのかね? 何も悪いことをしていないのに・・・。

洗礼を受けていなかったんです。どんなに罪のない無垢な赤ん坊でも  赤ん坊にかぎりませんが天国に行くには洗礼を受けなければなりません。そうでないと、神さまは受け入れてくれないのです。だから、子供が生まれたら、できるだけ急いで洗礼を受けさせる必要があるんですよ。


そういうことを誰に聞いたのかね?

神さまです。教会を通して、ですが。


どの教会?

ローマカトリック教会ですよ、もちろん。神の教会ですから。だいたい、カトリック教徒は、ほかの教会に行ってはいけないんです。それも罪なんです。


しかし、教会へ行かないことが罪なのだろう?

ええ、でも、間違った教会へ行くことも罪です。


「間違った」教会とは?

ローマカトリック教会以外の教会は全部です。間違った教会で洗礼を受けるのもいけないし、間違った教会で結婚するのもいけない。間違った教会へ行くこともいけないんです。
それは身をもって体験したから、よく知っていますよ。両親と一緒に知り合いの結婚式に招待されたことがあります。招待されただけではなくで、先導役をたのまれていました。でも、修道女たちに、それは間違った教会だから、招待を受けてはいけません、と言われましたよ。


それで、あなたは従った?

修道女の言葉にですか? いいえ。神さまは  あなたは よその教会にもおいでになると思いましたから、行きました。タキシードを着て祭壇の前に立って、良い気分だったな。


それはよかった。では、こういうことだね。天国があり、地獄があり、煉獄があり、リンボーがあり、大罪があり、小罪がある  ほかにも何かあったかな?

ええと、堅信礼があり、聖体拝領があり、懺悔がありますね。それから、祓魔があり、終油の秘跡があります。それから  守護聖人があり、労働をしないでミサに出席する、つとめの祝日という聖日があります。


どの日もみんな聖なる日だよ。どの1分も聖なる刻(とき)だ。いま、この瞬間も聖なる刻だし。

そうですね。でも、ほんとうに聖なる日というのがあるんです。つとめの祝日です。その日も教会に行かなければなりません。


おやおや、また「ねばならぬ」かな。もし、行かなかったら、どうなるのかね?

罪になります。


それで、地獄へ行くのか?

魂が罪を負っていると、煉獄へ行くことになります。だから、懺悔をしたほうがいいんです。
それも、できるだけしょっちゅうしたほうがいい。毎週、懺悔するひともいます。毎日というひともいますし。そうすれば罪はきれいにぬぐわれる きよめられますから、もし死ぬようなことがあっても・・・・。


やれやれ、いつも不安におののきながら生きているようだな。

でも、それが宗教の目的でしょう。宗教は、神へのおそれを植えこむんです。そうすれば、誘惑に勝って、正しい行いをしますから。


おやおや、だが、懺悔と懺悔の間に「罪」を犯し、事故か何かで死んだらどうなるのかな?

だいじょうぶ、あわてることはありません。完全に深く悔いあらためればいいんです。
「おお、神よ、わたしは神にそむいたことを心から悔やみ・・・」


わかった、わかった・・・もう充分だよ。

待ってください。これは世界の宗教のひとつにすぎません。ほかの宗教のお話もしましょうか?


いや、もうわかったよ。

読者のなかに、自分の信仰をばかにされたと思うひとが出てこないといいんですが。


あなたは誰も馬鹿にしてはいない。ただ、ありのままを述べただけだ。アメリカ大統領のハリー・トルーマンと同じだよ。
「あいつらに地獄を見せてやれ、ハリー!」と群衆が叫んだとき、彼はこう答えたんだ。「地獄なんか見せてやらなくていい。彼らの言葉をそのとおり引用したら、まるで地獄のような気分になるよ」と。

対話2 4章 p80
ずいぶん、寄り道をしましたね。時間について話していたのに、組織化された宗教の話になってしまいました。


そう、神との対話らしくていいじゃないか。神との対話には制限はない。

第3章でおっしゃったことを要約してみましょうか。
① いまこの時間を置いて、ほかに時間はなく、いまこの時をおいて、ほなに時はない。
② 時間は連続しているものではない。「上がったり、下がったり」するパラダイムのなかに存在する、相対性のひとつの面である。「時」や「出来事」は重なりあっていて、同じ「時間」に起こっている。
③ わたしたちは、この時間  非時間  すべての時間という領域で、あちこちの現実をつねに旅している。ふつう、旅は眠りのなかで行われる。デジャヴは、旅を感じるひとつの方法である。
④ わたしたちが「存在しない」時間は、これまでも、これからもない。
⑤ 魂の「年齢」とは、「時間」の長さではなく、認識のレベルを指す。
⑥ 悪はない。
⑦ わたしたちは、あるがままで完璧である。
⑧ 「間違い」とは相対的な経験にもとづいた、精神の概念化によってできあがったものである。
⑨ わたしたちは進むにしたがってルールをつくり、現実にあわせて変更している。それでまったくかまわない。わたしたちが成長する存在であるなら、そうあるべきだからだ。
⑩ ヒトラーは地獄へ行かなかった(!)
⑪ 起こることは全て、ひとつ残らず神の意志である。台風や竜巻、地震だけでなく、ヒトラーさえも同じだ。それを理解するには、すべての出来事の背景にある目的を知ればいい。
⑫ 死後の懲罰はない。すべての結果は相対的な経験のなかにのみあり、絶対の領域には存在しない。
⑬ 人間がつくり出した神学は、存在しない狂気の神を説明しようという、狂気の試みである。
⑭ 仮に進学の筋を通そうとすれば、神には筋が通っていないと認めなければならない。
こんなところでどうですか? ほかに、うまい要約の仕方がありますか?


いや、たいへんけっこうだよ。

よかった。だって、質問が山ほどあるんです。たとえば、10番めと、11番めの項目は、もっと説明を要しますよ。どうして、ヒトラーが天国へ行ったのか?(さっき説明してくださったことはわかりますが、でも、もう少し聞かせてほしいんです)。それから、そうした出来事の背後にある目的とは何か? その大きな目的と、ヒトラーやほかの独裁者とはどう関係するのか?


では、目的ということから説明しよう。すべての出来事、すべての経験には、機会を創出するという目的がある。出来事も経験も、機会なのだ。それ以上でも、それ以下でもない。
「悪魔のしわざ」とか「天罰」とか「神からの褒美」などと考えるのは過ちだ。出来事や経験は出来事や経験として起こるにすぎない。それに意味を与えるのは、わたしたちがどう考え、どう行動し、どう応えるかだよ。
出来事も経験も、あなたに引き寄せられる機会で、意識を通じて個人的、集団的に創り出される。意識は経験を創り出す。その意識を、あなたがたは向上させようとしている。機会を引き寄せるのは、あるべき自分を創り、体験するためで、あるべき自分とは、いまのあなたよりも高い意識を持った存在ということだ。
わたしは、あなたにあるべき自分を知らせ、体験させようと思って、そのために自分が創り出そうとする出来事や経験を引き寄せさせているのだよ。
宇宙のゲームに参加しているほかのプレーヤーがときどき、あなたと一緒になる  短い出会いであったり、ちょっとした通りがかりであったり、一時のチームメイトということもあれば、長年の知り合い、親戚、家族、愛する者、人生のパートナーであったりする。そうした人たちの魂は、あなたが引き寄せているのだ。そして、あなたも彼らに引き寄せられている。お互いの選択や欲望を表現する共通の創造的な経験だね。
誰も、偶然にあなたのもとへやってくるのではない。偶然などということはない。
なにごとも、いきあたりばったりに起こりはしない。人生とは機会の産物だ。
出来事も同じく、あなた自身の目的のために、あなたが引き寄せている。全地球的な経験や展開は、集団的な意識の結果だ。グループ全体の選択や欲望の結果として、引き寄せられてくる。

「グループ」というのは、何のことですか?


集合意識というのは、あまり理解されていないが、きわめて強力なもので、注意しないと個人の意識をはるかにしのいでしまう。だから、地球上の大きな人生経験が調和のとれたものであってほしいなら、どこにいても、何をしても、自分自身も集団意識を創り出そうと努力しなければならない。
あなたの意識を反映しない集団意識をもったグループにいて、集団意識をうまく変更できないとしたら、そこから離れたほうがいい。そうしないと、グループに引きずりまわされてしまう。あなたの意思とは関係なく、グループが行きたいところへ連れていかれてしまうよ。
自分の意識とあった集団意識をもつグループが見つからないなら、自分で創りなさい。そうすれば、似たような意識をもった人びとが引き寄せられてくるだろう。
個人や小さなグループは大きなグループに影響を与え  最後にはいちばん大きなグループ、つまり全人類に影響を与えなければ、地球上に、永続的で有意義な変化を引き起こすことはできない。
あなたの世界、そして世界のありようは、そこに住むすべてのひとたちの意識の集合の反映だ。まわりを見まわせば、やるべきことがたくさんあるのがわかるだろう。もちろん、今の世界で満足していればべつだが。
驚いたことに、たいていのひとは満足している。だから、世界は変わらない。
たいていのひとは、類似点ではなく相違点が重視され、意見やものごとの不一致が、紛争や戦争で解決される世界で満足している。たいていのひとは、適者生存で、「力は正義なり」で、競争が不可欠で、勝利が最高の善とされている世界で満足している。そういうシステムが「敗者」を生むとしても  当然、生むのだが、  自分が敗者でなければ、それでいいと思っている。そういう世界では、「間違っている」と判定されたひとは殺害される。「敗者」であれば飢えたりホームレスになったりし、「強者」でなければ抑圧され、搾取されるが、そんな世界でも、たいていのひとは満足している。
たいていのひとは、自分とちがうことがあると「間違っている」と決めつける。宗教的な相違はとくに認めないが、ほかにも社会的、経済的、文化的な相違を許さない。
上層階級は下層階級を食いものにしていながら、前よりはよくなっているじゃないかという勝手な理屈をつけて正当化する。上層階級はそうやって、恐るべき状況がわずかばかり改善されたことを理由に、ひとが真に公正に扱われるとはどういうことかを無視し、きたない利益を得る。
いまあるシステム以外のシステムを提案すると、たいていのひとはあざわらい、競争や殺人や「勝者による戦争の利益」が、偉大な文明を築いてきたのだと反論する!
たいていのひとは、ほかに生き方があるかもしれないとは考えもせず、いまのような行動が人間の本性だから、ほかのやり方では、人類の成功の原動力となってきた精神が破壊されるとすら考える(だが、誰も「どんな成功か」を問わない)。
こんな考え方は、真の悟りを開いた者にはとても理解しにくいが、地球上のたいていのひとは、そうしたやり方を信じている。だから、おおぜいの苦しみや少数派の抑圧、下層階級の怒りに見向きもせず、自分と家族以外のひとたちだって、生きる必要があるということを顧みない。
たいていのひとは、自分が地球を  命を与えられた星を  破壊していることに気づかない。自分の暮らしを良くすることばかりを考えているからだ。驚くほど近視眼的だから、短期的な利益は長期的には損失につながるかもしれない、それどころか、そういうことのほうが多いのに気づかない。
たいていのひとは集団的な認識におびえる。集団的な善や、世界はひとつ、すべての造られたものと離れず、一体として存在する神といった考え方におびえる。
離ればなれに存在するものがひとつになって地球によってたたえられる、そういう状態につながること、すべてへの不安が、分裂、不和、軋轢を生む。だが、あなたがたは経験から学ぶという能力すらもっていないらしく、同じ行動を続け、同じ結果を生じさせている。
他のひとの苦しみの経験を自分のものとして学ぶ能力がないこと。それが、いつまでも苦しみが続く原因だ。分裂は相違や誤った優越感をつくり出す。一体感は共感と真の平等を生む。
あなたがたの星で起こる出来事は  もう三千年も続いてきたわけだが  さきほども言ったように、「あなたがたのグループ」、つまり地球という星のすべてのグループの集合意識の反映だ。この意識のレベルは、どんなひいき目に見ても、原始的と言うほかない。

うーむ。たしかに。 でも、当初の質問からはずれたようですね。


そうでもない。あなたはヒトラーについてたずねた。ヒトラーという経験が可能になったのは、グループの意識の結果だ。多くのひとは、ヒトラーがグループを  この場合は国民を  たくみなレトリックを使って狡猾にあやつったと言いたがる。こう考えれば、何もかもヒトラーのせいにして、ヒトラーだけを非難すればすむ。それこそが、大衆の望みなのだ。
しかし、ヒトラーは、何百人もの人びとが協力し、支援し、積極的に服従しなければ、何もできなかった。だからドイツ人と呼ばれる小グループは、ホロコーストの大きな責任をになうべきだ。しかし、ある意味では、人類という大きなグループにも責任がある。人類は、どんなに冷酷な孤立主義者でも無視できないほど惨事がひとがるまで、ドイツ国内の苦しみに無関心で、鈍感だったのだから。
いいかね、ナチの運動を発展させた肥沃な土壌は、集合意識だった。ヒトラーはそのチャンスをつかんだだけで、創り出したわけではない。
この教訓を理解することが大切だ。つねに分離と優越ばかり口にしている集団意識は、大々的な共感の喪失を生み出す。共感の喪失は、必ず良心の喪失につながる。
ちっぽけなナショナリズムに根ざす集合的な概念は、他者の苦しみを無視するくせに、自分の苦しみについては他者にすべての責任を押しつけ、仕返しと「矯正」と戦争を正当化する。
アウシュヴィッツは、ナチによる「ユダヤ人問題」の解決策  「矯正」の試み  だった。ヒトラー経験の恐ろしさは、彼が人類に対して罪を犯したということではなく、人類が彼に罪を犯させたということだ。驚かなければならないのは、ヒトラーが登場したことではなく、あれほど多数の者が彼と行動をともにしたことだよ。恥ずべきは、ヒトラーが何百万人ものユダヤ人を殺したことだけでなく、何百万人ものユダヤ人が殺されるまで、誰もヒトラーを止めなかったことだ。
ヒトラー経験の目的は、人間性を示すことだ。歴史を通じて、注目すべき教師たちが現れては、あなたがたのほんとうの姿を思い起こさせるめざましい機会を提供した。これらの教師たちは、人類がもつ最高の可能性と最低の可能性を教えた。
人間とは何かについて、彼らは息をのむような生なましい手本を示した。自覚的な意志があれば、その経験をもとに多くの者はどこに到達でき、どこに到達するかを教えてきた。
いいかね、覚えておきなさい。自覚的な意識がすべてで、経験を創りあげる。グループの意識は強力で、言語に絶する美しさやみにくさを生む。どちらになるか、選択するのはつねにあなたがただ。
グループの意識に満足できなければ、変える努力をしなさい。他者の意識を変える最善の方法は、こちらからお手本を示すことだ。あなたの手本だけでは充分ではないなら、グループを創りなさい。他者に経験してほしいと思う意識の源になりなさい。あなたが行動すれば、彼らも行動する。
まず、あなたから始まる。何もかも、すべてがあなたから始まるのだ。
世界が変わってほしいと思うか? では、あなた自身の世界を変えなさい。
ヒトラーはそのために黄金の機会を与えてくれている。ヒトラー経験は キリスト経験と同じように  深淵な意味をもち、あなた自身についての深い真実を明らかにしている。だが、そうした偉大な認識が生きているのは ヒトラーの場合でも 仏陀、ジンギスカン、ハーレクリシュナ、アッチラ大王、イエス・キリストの場合でも あなたが彼らを記憶しているあいだだけだ。
だから、ユダヤ人はホロコーストの記念碑をつくり、決して忘れるなと要求しているのだ。あなたがたすべてのなかに、ヒトラーのかけらがある 程度の問題にすぎない。人類抹殺は人類抹殺だ。アウシュヴィッツでも、インディアンが虐殺されたウーンデッドニーでもまるで同じだ。

それじゃ、ヒトラーは、人類がどれほど恐ろしいことをやってのけるかを教えるために、どこまで人間が堕ちるかを教えるために、送られてきたのですか?


ヒトラーは送られたわけではない。あなたがたによって創り出されたのだ。彼はあなたがたの集合意識から生まれた。集合意識がなければ、存在しえなかった。それが教訓だよ。

分裂、分離、優越の意識「われわれ対彼ら」、「こちら対あちら」が、ヒトラー経験を創り出す。
聖なる友愛、統一、一体感、「あなたのもの対わたしのもの」ではなくて、「わたしたちのもの」という意識が、キリスト経験を創り出す。
「あなたの」苦痛でなく「わたしたちの」苦痛なら、「わたしの」喜びでなく、「わたしたちの」喜びなら、人生経験のすべてがわたしたちのものなら、そのときこそ、完璧な命の経験になる。

どうして、ヒトラーは天国に行ったのですか?


ヒトラーは、何も「間違った」ことをしなかったからだ。ヒトラーは自分らしく行動した、それだけだ。念のために言うが、何年ものあいだ、おおぜいのひとたちが、彼は「正しい」と思っていたのだよ。本人がそう思うのは当然ではないか? あなたが狂気じみた考えを思いついたとしても、それに一千万人が賛成したら、あなたは自分を狂人だとは思うまい。
世界は  ようやく  ヒトラーは「間違っている」と判断した。ということは、世界の人びとが、ヒトラー経験との関係を通じて、自分は何者であり、何者であろうとするかについて新しい考えをいだいたということだ。彼はものさしを提供したのだよ! パラメーターを設定した。わたしたちが自分自身についての考えを計測し、限界を決めるための境界をつくったのだ。対極ではあるが、キリストも同じことをしたのだよ。
キリストはほかにもいたし、ヒトラーもいた。これからも出現するだろう。だから、警戒を怠ってはならない。高い意識の者も低い意識の者も、あなたとともに歩いている。それどころか、あなたが彼らとともに歩いている。あなたは、どちらの意識をとるかな?

しかし、わたしにはまだ、ヒトラーがどうして天国に行ったのか、理解できません。
どうして、彼はそのような報償を得ることができたのですか?


第一に、死は終わりではなく、はじまりだ。恐怖ではなく、喜びだ。閉鎖ではなく、開放だ。人生で最も幸せな瞬間とは、それが終わる瞬間だ。
なぜかと言えば、それは終わりではなく、形容しがたく理解不能でありながら、もっとすばらしい、平安と知恵と喜びに満ちた前進だからだ。
だから、まず理解しなければならないのは すでに説明したとおり ヒトラーは誰も傷つけはしなかったということだ。ある意味では、彼は苦痛を強いたのではなく、終わらせたのだよ。
「人生は苦である」と言ったのは仏陀だが、彼の言うとおりだ。

たとえ、それを認めるとしても、ヒトラーは自分が善行を行っているとは知りませんでしたよ。
彼は悪事をしていると思っていたんです。


いや、そうではない。彼は「悪事」をしているとは思っていなかった。彼は同胞を助けていると思っていたんだよ。そこが、あなたには理解できていない。
どんな者でも、自分なりの世界モデルにてらせば、何も間違ったことはしていない。ヒトラーの行為が狂気のそれであり、当人は自分が狂っていることを知っていたと思うのなら、あなたは、人類の経験の複雑さをまったく理解していない。
ヒトラーは同胞のために善行を行っていると考えていた。それに、彼の同胞もそう考えていたのだ!
それこそが、狂気なのだよ! 国の大半が、彼に同調したのだ!
あなたは、ヒトラーが「悪事」をしたと言う。よろしい。そのものさしで、あなたは自分自身を定義し、自分をもっと知るだろう。よいことだ。だが、それを教えてくれたヒトラーを非難するのは筋ちがいだ。
誰かが教えてくれなければならなかった。
冷たさがわからなければ、熱さもわからない。下降がなければ上昇もない。左がなければ右もない。
一方を非難し、一方をほめるのはやめなさい。それでは、真実を理解できない。
何世紀も、人びとはアダムとイヴを非難してきた。彼らは原罪を犯したのだと言われてきた。だが、いいかね。あれは最初の祝福だった。あの出来事がなくて、善悪の分別がつかなければ、あなたがたは善と悪の可能性が存在することすら知らなかっただろう! じっさい、アダムの堕落と言われる出来事がなければ、善悪二つの可能性も存在しなかった.「悪」はなく、誰もが、何もかもが、つねに完璧な状態で存在していた。文字通り、パラダイス、天国だ。だが、それがパラダイスであることもわからなかっただろう 完璧さとして経験することもできなかった。他のことを何も知らなかったからだ。
アダムとイヴを非難すべきか、それとも感謝すべきか? そして、ヒトラーの場合はどうだろう?
いいかね。神の愛と神の憐れみ、神の知恵と神の赦し、神の意図と神の目的は、どれほど凶悪な犯罪、どれほど凶悪な犯罪者をも包み込んでしまうほど大きい。
あなたは賛成しないかもしれないが、それはどうでもよろしい。
あなたはいま、ここで発見すべきものを学んだばかりだ。
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